おぶなより

世界平和の祈りに寄せて

722_ひしみー143

10 初めて法輪を転ず

唐突で申し訳ないのだが、以下に個人的な独断と偏見(=五井先生の著作から学んだ宗教観を独自に敷衍または拡大解釈・拡張解釈したもの)で、お釈迦さんが悟りを開いてから、その教えの伝道に至るまでの経緯を、きわめておおざっぱに振り返っておくことにする。

最近のいくつかの回で、言外にはほのめかしていたつもりではいたのだが、やはり、断片的に本音を書くだけで、結果として奥歯に物の挟まったような言い方になるのは、自分としても煮え切らない感じを残していたからだ。

たとえ暴論になってしまったとしても、本音はハッキリと書いておくべきだと思うので、ごく簡単に記したい。

今まで、中村さんや、S さん(スリランカ仏教界のアルボムッレ・スマナサーラ長老)や、佐々木さんや、ひろさん(これらの方々の説をとりあえず仏教の通説とする)のご本を、五井先生の著作から学んだ独自の解釈も踏まえて、主に初期仏教を中心にいろいろと見てきた。

ひろさんのお話(これを通説と看做(みな)す)によると、お釈迦さん出現までの古代インドの修行者のあり方は、悟りを開いたら入滅する、涅槃に入る、いい方は悪いが、死ぬということになるらしい。

しかし。

これは納得できない、おかしな話である。

なぜならば、上記五井先生の宗教観からすれば、これはおかしいと思うからだ。

五井先生の宗教観からすれば、肉体人間(=唯物論に縛られている私達がごく普通に動物と同じように認識している人間のこと)の本体(本質)は、(普通は目には見えない)あくまでも肉体人間を有機的生命体として成り立たせている、この肉体に命を与えて生かしている神様の分けられたお命そのものが人間だと思われるからだ。

すなわち、神様の分けられたお命=霊魂魄こそが本当の人間、霊なる人間こそが本当の人間ということになるからだ。

そうなると。

私達肉体人間は、この世に肉体をまとって、この世を生きていく便宜上、自己保存の本能を付与されてはいても、本来は真善美と愛に悖らずに、気高く生きていかなければならない存在であることになる。

すなわち、肉体人間の本質は神様である以上は、悟りを開くとは、私達はあくまでも神様の分けられたお命を頂いて生きている神様の子供に他ならないのであり、
動物と同じようにこの世に形としてあらわれてはいても、この世を生きていく便宜上わが身を守る自己保存の本能を付与されていても、
真善美と愛に悖らず、気高く生きていくべき存在であることを身を持って感得して、そのように自然に生きていくことができるようになることが、悟りを開いたとも言えるからだ。

肉体人間は、肉体をまとっていても、神様の分けられたお命そのままを、肉体に映す・あらわすこと、すなわち、神様の子供であること=神様そのものに他ならない存在であることをあらわすことが悟りを開くことになるからだ。

従って、神様は愛に悖らない、愛深い存在なのであるから、自分だけが悟りを開いただけで、他の悟りを開けない他の人々、特に世の中の病争貧苦に苦しんでいる人々を置き去りにして、自分だけがこの世に別れを告げてしまい、はいおしまい、というのは納得できないのである。

だから、
お釈迦さんが世の中の人々がお釈迦さんの水準からすると程度が低すぎる(=教えには困難が伴う)から、伝道をしたがらない話も納得できないし、
梵天様という神様がわざわざ懇請をされて、あたかもお釈迦さんが三顧の礼にほだされたように伝道におもむくようになった話は、
どうもすっきりとはしない、後付けたような話に思えて仕方がないのだ。

という訳で、お釈迦さんが悟りを開いてから、あの梵天様の懇請によるお釈迦さんの伝道までの話は、いろいろな話をつなぎ合わせて、何となく辻褄を合わせたように思えるのである。

五井先生的な神様のとらえ方、すなわち、肉体人間のとらえ方ならこのような不自然さを生じることはない。

なぜならば。

神様を本質とする肉体人間ならば、
悟りを求めて、いまだ悟りを開けない修行者に対しては、悟りを開けるように導くだろうし、
そうした悟りを開くための修行生活に縁がなくても、世の中の病争貧苦に苦しんでいる人がいれば(四門出遊の話もわざわざあることだし)、彼らに修行は施さなくても、少しでも何とか救いに立とうとするのは、悟りを開いた宗教家として、当然の成り行きとなるはずだからだ。

たとえ、悟りを開くように指導して脱落者が出たとしても、
世の中のすべての人を救えない結果になってしまったとしても、
後世にたすき(バトン)を渡すべく、その悟りを開いた宗教家としての残りの人生のすべてをかけて、その肉体人間としての寿命が尽きるまで、精一杯の教えの伝道に努めるのが当然の帰結となるはずだからだ。

そんな訳で、仏教の通説とされる、お釈迦さんが悟りを開いてから、梵天様が懇請されたところまでのあの経緯は、個人的には納得できないのである。

(追記)
神様の話を始めると、神様の存否やそのかかわりも含めて、では悟りを開くとは何か、真理を悟るとは何か、となって、当然人間とは何か、という問題に行き当たらざるを得ない。

お釈迦さん(加えれば当時の古い仏教の経典も)が、いっぺん神様というもの、絶対者である造物主という形も全部なくして、自分で悟る方法を教えたことなどに関しては、つまり、お釈迦様さんが神様を全面に押し出さなかった(そして、仏教の経典もこれに配慮した)可能性については、 ( 558_仏言葉ー090 ー 仏教の本質 ) ですでに触れているので、気になるお方は、お手数で申し訳ないのだが、そちらをご参照頂きたい(もしお時間があれば、 ( 559_仏言葉ー091 ー 無量の感謝 ) も)。

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追記: 2023/09/14 05:20 他
〜訂正内容〜

本文を加筆・訂正しました。

何度も何度も訂正をして申し訳ございません。
今回は細かい訂正日時の記載は省いています。
ご了承下さい。