04 シッダールタ太子の問題意識
・金魚はかわいそう、泥鰌(どじょう)ならいい
前回( 612_ひしみー034 )、ひろさんのお話を一通り見て、これについて書こうと思ったのだが、この章( 04 シッダールタ太子の問題意識 )をすべて見てからに変える。
引き続き、ひろさんのお話を見ていく(改変などあり)。
さて、疑いを差し挟(はさ)むとはどういうことか?
シッダールタ太子は、虫を小鳥が食い、その小鳥を猛禽類が食う自然界のあり方を、「おぞましい・むごい」と見た。(*1)
しかし、私達現代の日本人は、そのような光景を見ても何も感じない。「当たり前」と見る。
いや、ちょっと違う。
こんな話を仄聞した。ある水族館で、飼育している魚の餌として金魚を与えていた。だが、来館者に金魚がかわいそうだと抗議されたので、水族館側はやむを得ず金魚を泥鰌に変えた。そして、文句は収まった。(*2)
しかし、水族館としては養殖業者から買う金魚は、餌として、せっかく値段が安くついていたのに、泥鰌に変えると餌の価格が高くなってしまうから、経費が節約できなくなって困るのである。
それはともかく、私達が感じるのはこの程度である(動物、なかんずく、魚に感じる命の尊さをいっているのだろう)。金魚ならかわいそうだが、泥鰌ならかまわない、と。
蜘蛛(くも)の網に蝶が引っ掛かっている。幼稚園の先生は蜘蛛の網を破り、蝶を逃がした。
すると園児が、「先生、そんなことをしたら蜘蛛がかわいそうだよ」と抗議した。
せっかく網にかかったはずの餌を人間に勝手に逃がされてしまったのだから、蜘蛛からすれば困ったことである。
先生にしてみれば、蝶が美しいから逃がしたくなり、蜘蛛は醜いからいじめてよいことになる。
いや、いじめるといった意識すらないだろう。蜘蛛から餌を奪うことなど、当たり前なのだ。その先生の当たり前の行為に、小さな園児が抗議したのである。
と、このように説明をすれば、一応、納得してもらえそうだ。
だが、慧眼(炯眼と書いてあるが、慧眼の方が一般的なのでこうする)の読者はお気づきのように、園児は蜘蛛が蝶を食うことを暗黙の前提、つまり、当たり前にしている。(*3)
そうすると、小鳥が虫を食うことは当たり前であり、その小鳥を猛禽類が食うのも当たり前となる。
ならば、シッダールタ太子は何に疑問を差し挟んだのか?
このような弱いものが強いものを食うことは当たり前なのだから、すべてが当たり前なのだから、そこには疑問を差し挟む余地はないはずだ。
それとも、
小鳥が虫を食うのは、
水族館で餌に泥鰌を使うのと同様に、
当たり前であり、
猛禽類がかわいい小鳥を食うのは、
金魚が食われるのと同様に、
かわいそう、いや、おぞましいことだ、
とシッダールタ太子は見たのであろうか?
こうした解釈もできそうではあるが、
それではシッダールタ太子は、
現代の日本人と変わらない、
同じになってしまう。
従って、そのような解釈は成り立たない(とひろさんは決めつけている)。
わからなくなってしまった(???)。書いている本人(←ひろさんのこと)がわからなくなったのだから、ひどいものだ(???)。
もう一度、振り出しに戻ろう。
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(*1)ひろさんは虫のことを、やたらに虫けら、虫けら、と何度も書いているが、とにかく言葉の響きが悪いし、ここでの理屈の展開にはそぐわないと思うので、私の個人的な判断で、できるだけ虫けらを減らし、虫に変えている。
(*2)仄聞~そくぶん~(「側」も「仄」もほのかの意)うすうす聞くこと。噂に聞くこと。
(用例)仄聞するところでは。
仄は、常用漢字表にない漢字。
側聞とも書く。
(*3)炯眼~けいがん~(炯は光り輝くの意)①眼光の鋭い目つき。
(用例)炯眼人を射る。
②ものの本質を見通す鋭い眼力。また、それを持つこと。慧眼。
(用例)炯眼の持ち主。
ここでは、②の意。
炯は、常用漢字表にはない漢字。
・慧眼~けいがん~(「慧」は賢い意)→炯眼②。
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追記: 2021/12/05 05:03
〜訂正内容〜
本文と注釈を加筆・訂正しました。