ー つとめ励むこと ー
前回 ( 214_原仏13ー3 - おぶなより ) の続きです。
なお、便宜上、本でなされている内容及び解説を、(A) と記します。また、私の文を (B) と記します。あらかじめ、ご了承頂きますよう、お願い申し上げます(段落分けなどの改変あり)。
(道に)思いをこらし、
堪え忍ぶことつよく、
つねに健(たけ)く奮励する、
思慮ある人々は、安らぎに達する。
これは無上の幸せである。
(二三)
(A) この場合の安らぎとはニルヴァーナ(涅槃)のことです。
つまりそこでは人間の煩悩や穢(けが)れがすべて消滅している、理想の境地のことです。
これは現実にはあり得ないと思われるかもしれませんが、それを目指してつとめている、そこに最高の境地がある訳です。だから、それは無上の幸せと言われているのです。
(B) スッタニパータ (二六六) の道の人や哲人のくだりでもそうでしたが、堪え忍ぶ、の意味がまったく解説されていません。何ですっ飛ばすんですか、中村さん。
宗教(仏教)の素人の私には、ちゃんと説明してくれなければ、わかりませんよ。
このダンマパダ (二三) の場合なら、修行の厳しさを言っているのかな、と推定できますが、はっきりとはわかりません。これでは困ります。
それと。
涅槃の境地に到達したら、境地はそこのことだけを指していうのと違いますか?
目指してつとめているのは、尊い姿ではあるのでしょうが、境地ではないんじゃないのですか?
境地~①その時の心の状態。心境。
②置かれている立場や環境。
なのだから。
ちなみに、この場合の涅槃の境地に達すること、悟りを開いたことは、自力による修行で到達したものになりますね。
悟りに達したことが幸せなのか、それまでの尊い努力の過程が幸せなのか?
これは、おそらく、両方の意味合いでしょうね。
そして、たとえ、今生(今回の人生)で涅槃に達することができなくとも、その尊い努力は来世以降に引き継がれて(よほど道を外さない限り)蓄えにはなりますから、これも、やはり、幸せとなるでしょうね。
今生では報われない努力だとしても、輪廻転生を通しては、よき蓄えになるのだから。
次です。
思慮ある人は、
奮い立ち、
つとめはげみ、
自制・克己(こっき)によって、
激流もおし流すことのできない島をつくれ。
(二五)
(A) 自分を制し、自分にうち克ってつとめ励む。
これは確固たる境地なので、激流も押し流すことができない島(帰依するところの意)のようなものなのです。あるいは洲(す)と訳すこともあります。
これは、人生において頼りとなるところのものをいうのです。
(B) ここでも、揺るぎない精進の過程を境地と言っているが、何か違うような気がするんだけどなあ。
まあ、涅槃を目指す修行者は、厳しい修行を投げ出したくなる自分を克服して、石にかじりついても登る、不退転の堅い決意を持って、修行に励め、ということなのでしょうか?
ー 心について ー
(A) それから、第 三 章の、心というものについての反省も、なかなか鋭いところがあります。
心は捉(とら)え難く、
軽々(かろがろ)とざわめき、
欲するがままにおもむく。
その心をおさめることは善(よ)いことである。
心をおさめたならば、安楽をもたらす。
心は極めて見難く、
極めて微妙であり、
欲するがままにおもむく。
英知のある人は心を守れかし。
心を守ったならば、安楽をもたらす。
(三五 ー 三六)
(A) 物質的な対象であれば、我々は見ることができます。しかし、心を見ることはできない。わずかに、その働きを通じて、反省することができる訳です。
心というものは外からの刺激に応じて、あっちへ誘惑され、こっちへ迷い、といった具合のものです。
だから、引きずり回されないように心を守る必要があります。それによって本当の意味の安楽が実現するのです。
(B) 私は力不足のためにここに書かれている文章の意味がわかりません。反省するというのも、何を反省しているのか、サッパリわかりません。
ここに書かれている心とは、何を意味しているのか?
心を収めて守ることによって、安楽をもたらすとされているのだから、よいものだとはわかる。
安楽が安らぎである涅槃を意味しているなら、絶対である。
仮に、この心が神様のみ心であると仮定すれば(ざわめくという表現がひっかかるが)。
神様のみ心、光の波動は細やかで、微妙で、動きが極めて早く、捉えることは難しい。
神様の世界、神界から流れてくる光は、霊界の下層と幽界、特に幽界にたまりにたまっている、人間の真善美に悖る業想念で、より粗いたくさんの波動に妨げられてしまい、なかなか、現界たるこの世にまで、届かない。
届いたにしても、業想念で汚されて、元々の神様の光そのままの、素晴らしい想いや行いとして、あらわすことができない。
自力修行にしても、よほどの鍛練に次ぐ鍛練を重ねていないと、業想念を浄め去ることは難しい。
この業想念を浄め去り、神様の光が汚されずに素直に現界まで届くことができれば、神様のみ心そのままに、想いや行いがあらわれてくることになる。
そうすれば、涅槃の境地にあれば、業想念を浄め去り、解脱しているから、神様の光そのままに、素晴らしい想いと行いが、神催しに行われていくことになる。
いくつか、ひっかかる言葉(誘惑される、迷う)はあるけれど、多分、こっちのほうの意味合いなんじゃないかなあ、と思うんだけど。
心を収めることは良いことで、英知を持った人は守るべきだと言い、そうすれば、安楽がもたらされるとなっているのだから。
間違っていたら、ごめんなさい。
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①追記: 2020/12/19 22:13
②追記: 2024/04/16 03:21
③追記: 2024/04/16 11:31
〜訂正内容〜
上記複数回にわたり、本文を加筆・訂正しました。