おぶなより

世界平和の祈りに寄せて

414_法悟28-22-2

第 4 週  人格の完成をめざす

1  生きることに目的など存在しない

最高の利益は健康である。
最高の財産は充実感である。
最高の親類は信頼できる人である。
最高の幸福は涅槃(ねはん)である。

(二〇四) (第15章 幸せ より)

勝手にやります。

以下、健康を 1、充実感を 2、信頼できる人を 3、涅槃を 4 として書きたいと思います。

1. 健康

まずは、大前提として、私達肉体人間は神様の分け命、分霊(わけみたま)を本体とするので、神体そのままが写し身となっていれば、健康そのもので、何ら問題は起こらないはずです。

なぜならば、神様は真善美に悖(もと)らない完全円満な存在であり、それがそのまま素直に肉体に反映されていれば、不健康になり得ないからです。

ところが、神様の世界をこの地球さんの上に映し出そうとするために、すなわち、地球さんの開発のために、本来は神体、霊体であったものを、さらに波動を粗くして想いの幽体をまとい、さらに肉体をまとって、生きていくことになった。

その肉体人間となる上で、本来はなかった自己保存の本能を追加付与された。そして、基本的に、肉体としての命は有限だから、という意味合いもあったのかもしれない。

そうして、はじめは神様の命の分かれ分かれの兄弟姉妹として、自他一体感があったものが、次第に人間は目に見えるこの肉体だけだ、人間=肉体人間なのだ、とする想いの癖が出てくるようになり、各々が別個の存在と認識するようになっていった。

そうした中で出てきた肉体人間としての行動原理が、自らとそのごく近しい者だけの利害を最大化する行動原理で、皆ほとんどの人が、自らを中心とした利害得失計算に明け暮れる生き方をするようになってしまった。

つまり、現代の唯物論の生き方とほぼ同じようになってしまった訳です。

こうした自己中心のエゴの生き方をするようになると、どうしてもその想いが、他人を出し抜きたい、自分だけがいい思いをしたいという形で、神様の分霊を頂く神様の子供としてはふさわしくない、真善美に悖るようになってくる。

そうすると、この真善美に悖る肉体人間として為(な)してしまった想いと行い、すなわち、業想念は、神様の子供としてはふさわしくない、あってはならないものとなる。

神界、霊界、幽界、現界(肉体界、この世)すべてを、広義の神様の世界ととらえれば、もしも業想念を生じさせてしまったら、これは清算して、なくさなければならない。

神様の世界には、真善美に悖るものは、あってはならないものだから。

そして、この清算が、原則として、輪廻転生と呼ばれる生まれ変わりを通して、行われていくことになる。

しかも、生まれ変わって肉体人間としてこの世に生を受ける時には、ほとんどの人があまたの過去世で為した業想念の記憶が消し去られてしまって、過去世の記憶がない状態で生まれてくる。

それゆえに、今までの人生、今生(こんじょう)、現世では、その清算が、まったく身に覚えのない、病気、争い、貧乏、苦労のような形となってあらわれ、こうすることで業想念をあがなう、償う形を余儀なくされることになる。

この世も広義の神様の世界を構成するものならば、病争貧苦などは、本来ならば、あってはならないはずのもの。

これがあらわれているということは、肉体人間としてあまたの過去世でつくってしまった業想念の清算の過程の一環として、あらわれているということになる。

これを、五井先生は、消えてゆく姿、と書いていたと思われる。

これは、よりわかりやすくは、あまたの過去世の因縁の現世で時を経て消えてゆく(=解消されてゆく)姿、と表現できる。

今、現在、今生で健康であるということは、原則としてあまたの過去世において健康を損なうような業想念がなかったとも解釈できる。

もしも、過去世で、その後々の世のいつかに、健康を損なうような形であがなう、償う業想念があるならば、これが今生か来世以降にあらわれてくることになる。

病気もそうだが、こうした病争貧苦は、生半可なものではなく、大変な苦労を強いられることが多いので、なければそれに越したことはないし、自らの過去世の生き方をも含めて、ありがたいと感謝するべきだと思われる。

これらのことを、ごく短い一言であらわせば、上記の経文のように、最高の利益は健康である、となるのだろう。

2. 充実感

S さん( スリランカ仏教界のアルボムッレ・スマナサーラ長老 )の書いている充実感を読んでいると、ここで書かれているのは、欲を掻(か)かずに、生活や行動を必要最小限度に維持できる範囲で、満ち足りることですね。

もっと言えば、どんなに些細(ささい)なことであっても、妙好人(みょうこうにん)の人達のように、心から素直な感謝がわき上がれば、最上です。

3. 信頼できる人

この経文では、親戚=自分にとって良き存在、もっと言えば、あらゆる面で都合のいい存在ですね。

親戚は、自分とは確かな信頼関係があり、決して自分に悪くすることはない、と。

これが、暗黙の前提とされていると解釈できる。

しかし。

親戚だろうが、親子だろうが、兄弟姉妹だろうが、夫婦だろうが、過去世の因縁によっては、反目し合い、厳しい対峙(たいじ)を強いられる場合がある。

逃れられない深い絆の下で、過去世の因縁を果たさなければならない、清算をしなければならない場合が出てくるんです。

仲良しだから、恋人になり、夫婦になり、未来永劫、うまくいく場合はそんなには多くはなく、お互いが砥石(といし)のように魂を磨き合う方が多いように思うんですけど(実際のデータはわかりませんが、この世で比較的うまくいっているご夫婦は、それぞれに過去世の想いと行いが良くて、しかも深い絆で結ばれた方達なのだと考えられます)。

これと同じように、親子、兄弟姉妹、知人、友人と、いろいろと(因縁を解消するために)苦労する場合が、かなりあるように思うんですよ。

そんな中で、上記経文にあるように、紆余曲折(うよきょくせつ)を経たその末でも、そうでなくても、この厳しい浮き世(=この世)での固い信頼関係を築く友人(や親戚)を得ることができれば、最高だと言えるでしょうね。

4. 涅槃

涅槃を霊的に言えば、神様の世界そのままの想いと行いを、あらわし得る状態。

肉体人間の肉体にまつわる各種の想いという、余計なものを排した神様そのものの想いと行い。

当然、皆のためになる、誰も損ねることのない、素晴らしい想いと行いがあらわれてくるはずです。

しかし、人類は肉体人間として、あまたの過去世で積み重ねてきてしまった業想念が、この神様の想いと行い、神様の光をそのままこの世にあらわすことを遮(さえぎ)っている。

だから、この神様の光のあらわれ、神様の世界のこの世へのあらわれを最終的に成就させるためには、この遮蔽物(しゃへいぶつ)である業想念は、その生じるたびごとに、(原則として)隔世を経て、清算という形で次々と消し去られる宿命にある。

嫌でも何でも、神様の世界においては、業想念はその存在が許されないから、なくされる宿命にあると考えられるんですよ。

病争貧苦をはじめとして、こうした過去世の因縁の解消としての清算過程は、私達肉体人間にとっては、きわめて辛い、キツイものがあります。

なので、魂についた汚れ(=業想念)を落とす厳しい修行としか思えません。

妙好人の人達ならば、すべては阿弥陀如来様(神様)のお計らいだ、ああ、何とありがたいことか、となるのでしょうけど、この境涯(きょうがい)にまで到達できる人は、そうはいないのではないでしょうか。

個人的にはそんな気がします。

あと、これも個人的な感想なんですが、輪廻転生を通して、悟りを得る、涅槃の境地に到達できれば、輪廻転生は卒業となり、お釈迦さんのように、もうこの世に降りて来ることはない、と解釈できます。

本当は、悟りを得たならば、もっともっと、何度も何度も、この世にあらわれてもらって、乱れているこの世を、少しでも早く救って頂きたいなあ、と思うんですけど・・・。

あと、S さんのつけた今回の表題( 1  生きることに目的など存在しない )については、過去に触れた( 406_法悟28-19-2 )内容とかぶるので、ここでは省略します。

ご了承願います。(※)

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(※)簡単に言うと、人としてのより良き生き方をしていくことが、最終的には何につながっているのかを、一応は視野に入れておくべきではないか、ということです。

人生のその時々では、人は良きに生きることに精一杯で、あまり、こうした大上段に構えたことは意識に昇ることはないのかもしれませんが、より良く生ききるためにも、知っておいてもいいのではないか、と思いましたので。

自らを主体(中心)として哲学するのもいいのかもしれませんが、神様とは違い、思うがままにならない様々な要素を抱えた客体としてこの肉体人間を考えてみた時に、なぜこのようになっているのかを、どうしても考えてしまうんですよ。

そうすると、このような肉体人間をつくりあげた絶対者、すなわち、神様は、何の意図をもって、この世に送り出してきたのか、をどうしても考えてしまうんですよ。

S さんのお話で言えば、心を清らかにするのは何のためなの?

ただ単に自分のためだけなの?

そのような肉体人間のあるべき姿を目指すのは、この地球さんにただのひとりぼっちじゃないんだから、何か他にも意味があるでしょう?

と言いたいんです。

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追記: 2021/06/26 12:10 〜訂正内容〜

注釈を追加して、本文を加筆・訂正しました。