518_仏言葉ー052 ー 生命の使い道
第 4 章 これから先がどうなるか不安
52.怠惰は死同然
今回から、第 4 章に入る(経文の改変あり)。
また、ダンマパダ(法句経)に戻る。
余談だけど、前回( 517_仏言葉ー051 ー 及ぼすこと )のアングッタラ・ニカーヤの経文が中村さんの原始仏典で扱っていて助かった。
あの経文はおそらく普通には解説している本もないだろうし、大蔵経ではどうにもならなかったから。
やれやれ。
では、ダンマパダ(法句経)です。
励み努めれば不死に至り
怠り怠ければ死に至る。
励みつとめる人は死ぬことがなく
怠り怠ける人は生きた屍である。
(二一) (第02章 励み より)
これは、( 504_仏言葉ー038 ー 涅槃で幸せを )の ー (二一) (第02章 励み より) ー を見た時にすでに触れたので、これを引用する。
簡単に言うと、悟りを得るように修行をひたむきに重ねることは、不死の境地に至れる、ということ。
霊性面で言うと、悟りを得ることができれば、肉体人間は、生まれ変わり、死に変わりする有限の寿命しかない存在ではなくて、神様の分け命を頂いた者として、それなりの天命を果たすために仮に肉体に宿り、輪廻転生を繰り返しながら、それなりの働きをしていく、永遠の命のある存在に他ならない者であり、つまり、不死である。
悟りを得ることは、こうした神様としての永遠の命を感得、獲得することに他ならない。
ただ、佐々木さんの本や一般的な仏教の本で書いてあるのは、こうした意味合いを全面には出さないで、とにかく、悟りを得るように修行すること、努めることは、素晴らしいことであり、限りある肉体人間の命を生き生きと生かしている、という意味合いにとらえている、と個人的には考えている。
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504_仏言葉ー038 ー 涅槃で幸せを
第 3 章 自分が何のためにいるのかわからない
38.涅槃への道
今回から、第 3 章に入る(経文の改変あり)。
第 3 章の表題は、上記のように「自分が何のためにいるのかわからない」となっている。
佐々木さんは、何を意図しているのかな?
よくわからないけど。
さて、また、今回から再びダンマパダ(法句経)に戻る。
佐々木さんの引用しているのは、ひとまとまりの中の最終部(二三)なので、この際なので、ひとまとまりをすべて引用する(改変あり)。
励み努(つと)めれば不死に至り
怠(おこた)り怠(なま)ければ死に至る
励みつとめる人は死ぬことがなく
怠り怠ける人は、生きた屍である。
この道理をはっきりと知り
励み努める賢い人は
努力に喜びを見いだし
聖なる境地を楽しむ。
彼は、常に思索し
堅固(けんご)な意志をもって、励み努め
安らぎ、すなわち
無上の幸せに至る。
(二一・二二・二三) (第02章 励み より)
佐々木さんによると、お釈迦さんは、この句(二三)で、瞑想して、常に辛抱強く精一杯努力する賢者達は、煩悩が消えて心の苦しみのすべてが、完全に消えた涅槃に到達できると言っているそうだ。
ここで死ぬというのは、何を意味しているのかな?
ただ、時間ばかりが過ぎていき、いずれは寿命を迎えるということなのか?
だから、ただ時間を浪費しているだけだと言いたいのか?
生きていても、悟りを開かなければ、無意味、無意義、無価値ということなのか?
つまり、有意義に生きるために、(修行者は)瞑想して、悟りを得られるように、常に精進すべし、ということなのか?
死ぬことがないとはどういう意味だ?
肉体人間は必ず死を迎える。
これはお釈迦さんも、老いと死を、まるで諭すかのように述べていることからも、明らかだ。
そうであるからには、もしも、不死=永遠の命を獲得するとすれば、それは、人間=肉体の肉体人間観ではないとらえ方だ、ということになる。
そうでなければおかしいではないか。
この経文は、一体何が言いたいのか?
とりあえず。
煩悩が消えた境涯を勝手に想像してみると・・・。
煩悩が消えるということは、この世にあらわれてくるすべてのものは、そのほとんどが過去世の因縁の時を経て消えてゆく姿であると見て、良いことも、悪いことも、何が起きようとも、一切心を動揺させることなく、達観していられることである。
なぜ、達観していられるのか?
それは、この世での、良いことも、悪いことも、すべては遠い彼方の未来に、神様の世界がこの世にあらわれきる、成就するための中間の過程として、(主として)神様から離れた間違った想いや行いの清算されていく姿であると深く理解しているからだ。
だから、良いことが起きてきたら神様のみ心に適うから無条件にありがたいし、悪いことが起きてきたら神様の世界があらわれるための妨げになっている間違った想いや行いを神様に消して頂いているのだから、これはこれでありがたいこととなる。
従って、この世に起きてくることのすべては、良いことも、悪いことも、神様の世界があらわれてくるための、必然的な通過儀礼なのだ。
ならば、すべてありがたい。
そうなると、残る境涯は感謝一念。
あれもありがたい、これもありがたい、みんなありがたい、だけになるのだから、苦しむことはない。
肉体人間も、大自然も、植物も動物も何もかも神様のあらわしたもの。
神様の命から分かれて、肉体人間として、様々な時代や環境に送り出されても、自分の本体が、神様の命である、永遠の神様の命が、分かれ分かれになって仮に肉体に宿って、天命を果たすために働いていたに過ぎないのだ。
本当の自分は、肉体人間として必ず死を迎える人間などではなく、永遠に生き続ける神様と一体のものだったのだ、と感得することができれば、不死の境涯ということになる。
肉体人間として悟れずに、右往左往して苦しんで、輪廻転生を繰り返していたけれど、悟りを得れば、神様と一つ、迷いは消え果て、真の安心立命の境涯となる。
もう、迷いもないし、(肉体に起因する)煩悩もない。
神様と一緒なら安心だからだ。
と、試みに考えてみました。
(加筆)
とは言うものの。
いくら人間の本質が肉体ではない、神様の分け命だとわかったとしても、たくさんの輪廻転生を通した肉体人間としての人生をどうせ肉体としては仮の命なんだからとすぐに投げる、あるいは、軽んじる(本当に感得できていればあり得ないことだが仮定の話として)、粗末にするのは、やはり、よろしくない。
肉体という、あらゆることに時間がかかり、なかなか思いのままにならない身体の中に閉じ込められているからこそ、この愚鈍な肉体を用いるからこそ、味わう紆余曲折や喜怒哀楽や苦労などの様々な経験により、魂が磨かれる側面もあると考えられるので、簡単には肉体を放棄(?)しないように、自己保存の本能を持たされた可能性がある。
様々な経験すべきことをやらないで、簡単に修行から逃げ出さないように、死への恐怖を植えつけられている可能性があるということ。
だから、神様はこうしたお考えから、自己保存の本能を肉体人間として持たせた可能性も考えられます。
あっても我欲に走る元となり、業想念を作り出す要因にもなるし、無ければ肉体を維持できない。
こうした肉体人間としてのできることの少ない身体を持ち、自己保存の本能を持つという難しい状態にありながら、悟りを得る、神様の想いと行いをあらわせるように、精進していくようになっているように考えられます。
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追記: 2021/09/15 00:15 〜訂正内容〜
本文を加筆・訂正しました。