おぶなより

世界平和の祈りに寄せて

719_ひしみー140

10 初めて法輪を転ず

・ダルマをみずから味わうための道筋

前回( 718_ひしみー139 )の続きです。

以下は、ちょっとひろさんのご本の本筋から外れ、かなりの独断と偏見になってしまうので、あらかじめそれをご了承下さい。

前回の後半の五井先生的と思われる内容(=五井先生の本に書かれている内容を私なりに敷衍・拡大解釈したもの)が、一般的な仏教を奉じる人(=唯物論的な思考をする人とさせて頂く)や唯物論者の人からすると、かなり、オカルトっぽく感じる内容になってしまったかもしれない。

今回も、それを含めた話になってしまうが、お許し頂きたい。

ご興味のない方は、お時間の無駄になると申し訳ありませんので、以下はお読みにならずにお済ませ下さい。

一般的な仏教では、ひろさんもそうだが、お釈迦さんだけを特別扱いして、その悟りの境地を大宇宙の真理を悟ったように理解しているようだ。

しかし。

お釈迦さんの悟りまで、数十段階の悟りがあり、誰がどこまで、かれがここまで云々とするあたかも禅問答のような仏典があっても、これにそんなに意味はあるのか?と疑問を抱いてしまうのだ。

お釈迦さんだけが、特別な高みにのぼったたった一人の大教祖扱いで、下に段をつけて、誰がどうの、かれがこうの、という問答の実質的な意義に疑問を感じてしまうのだ。

私が五井先生の話を持ち出したのは、真理を悟るのも結構だが、それが行いにあらわれなければ、意味をなさない、と思うからだ。

行いの前には、必ず私達肉体人間の抱く想いがあるから、この想いが、実質的な最終産出物(=最終アウトプット)とみなすことができる。

どんなに、深い真理を理解しようが、肝心の想いと行い(以下、想いと行いを想いにまとめて表記する)が悪ければ、それは意味をなさないのではありませんか?

極端な言い方になって申し訳ないが、どんなに偉そうなご高説を垂れていても、日頃の想いが、神様のみ心に適わないもの、すなわち、真善美に悖り、(神様の)愛に背くものでは、何にもならない。

簡単にいうと、いい意味での言行一致でないと、宗教談義に花を咲かせていても意味がない、ということになってしまう、と思うのですよ。

肝心な最終産出物は、想い。

それも、熟慮に熟慮を重ねて、ようやく出るようなものではなくて、瞬時にサッと良い想いが出せるようになる必要がある。

(肉体)人間とは何か、この五感で認識される世界=この世とは何か、この世の理(ことわり)はどうなっているのか、この世以外の世界があるのか、大宇宙の真理はどうなっているのかに、どんなに深い造詣があって、議論をたたかわせることができたとしても、普段の何気ない想いに反映されなければ、絵に書いた餅にしかなりません。

人間の抱く想いは、うつろです。ほんのコンマ何秒以下の単位(いや、それ以下かもしれない)で、クルクル変わる。

様々な想いが頭脳を去来する。

想いを鎮めて制御(統一)するのは容易ではない。

多分、悟りを開いた人くらいでないと、制御できない。

これは瞑想をかじったことのある人なら、誰でもわかるはずです。

やっぱり、こうしたところからしても、私達肉体人間の本質は、肉体を有機的な生命体として成り立たせている元は、限りなく微妙で、微細で、表現できないような神秘的な波動、すなわち、神様に行き着くとしか考えられない。

だから、肉体人間としてこの世に生を受け、この物質世界となるこの世で肉体を維持していくために、やむを得ない形で、自己保存の本能を与えられ、利己的な行動を取らざるを得ないという、厳しい制約がある中で、普通に肉体人間として良いと思われる想いを抱くように、努めて、自らを修養していくこと、すなわち、上記の言い方ならば、真善美と愛に悖らない想いを自然に出せるように、自らを修めていくことが、やはり、求められてくると思うんですよ。

ではなぜ想いを鎮めて制御して、できる限り良い想いが出せるように、頭の中ができるだけ良い想いで満たされるようにしなければならないか、というと。

私達の抱く想いが私達の運命をひいては、その集積としての世の中の運命を決めていく、と考えられるからです。

以下、肉体人間の本質は、神様の分けられたお命である霊魂魄であり、霊魂魄は輪廻転生をするものとして、話を進めます。

私達には、はなはだわかりにくく、厄介なことに、この想いの結果というか、行く末は、輪廻転生を通すことが原則になっているのです。

つまり、現時点で肉体人間として新たに抱いた想い(=因縁)は、原則として来世以降に結果(=因果)としてあらわれるようになっているのです。

つまり、初めてこの世に生を受けてから、繰り返す人生の中で、過去の何度もの生まれ変わり死に変わりのたくさんの想いの集積が、次の世、そしてまた次の世と、バッハのフーガというか、海の波のように、繰り返し繰り返し、あらわれていくのが、輪廻転生だと考えられるのです。

ということは、現在の想いもかなりの部分が過去世(=前世、前々世、・・の総称)で占められていて、この世にあらわれてくる運命も、かなりの程度過去世の想いを反映したものだ、ということになります。

従って、良い想いも、悪い想いも、私達がたくさん抱く想いは、輪廻転生を通して私達の人生を作り出し、巡っていくのが、輪廻転生ということになります。

肉体人間としての生物的な寿命は限らているために、20 才をピークとして肉体が衰えるのが恐ろしい、病気になるのが恐ろしいなど、肉体か衰え、損なわれ、最終的に肉体が失われる死に恐怖を抱き、過去世の真善美に悖り愛に背く、その本質である神様からすると誤った想いの結果としての病争貧苦を味わい、迷わざるを得ないようになっている。

こうした形になるのも、自己保存の本能により利己的な想いを抱かざるを得ないという制約があるから仕方がないとはいえ、この制約の中でも、その本質の神様そのものの命をあらわすべきことには変わりがないことになります。

なので、普段からの想いが真善美と愛に悖らない想いで満たされるように、それも何気なく自然にサッと出せるように、つまり、神様のようになるように、できるだけ近づいていくための修行が、輪廻転生であり、その一部分が私達の味わうことになる個々の人生と考えられるのです。

端的に言うと、肉体人間という生物としては、動物のような利己的な行動を取る傾向があることはやむを得ないとしても、その本質が神様である以上は、肉体人間各々は、どんなに見た目が異なり、年齢が異なっていても、肉体人間である以上、神様のお命を分け与えられたことによって生きている神様の子供である、兄弟姉妹、同胞であり、従って、互いに愛し合い、慈しみ合い、互いのために生きるべきだ、ということになります。

過去世の因縁により、この世にどんなに反目する形であらわれているとしても。

ただし、実際には、そうした利己的な想いのために、他者を損なう想い、他者を憎む想い、出し抜く想いなどがぶつかりあって、過去世の因縁となり、次の世以降に、いさかいや争いという形にあらわれてきてしまう。

しかも、さらに厄介なことには、私達は輪廻転生を経ると、原則としてそれまでの過去世の記憶は消されてしまう。

これでどうなるかというと、今生の今現在にあらわれてくる意図せずに起こってくる出来事は、過去世の想いをその原因(因縁)のあらわれとしてのものが、かなりある、ということになります。

ただただ、偶然に良い想いをした、悪い想いをさせられたという出来事は、過去世の中にあったいわば身に覚えがない抱いた想いを原因とした、今生にあらわれた結果である可能性がかなり高いということです。

以上のように見てくると、私達の輪廻転生を通した神様のあり方に近づいていくために、すなわち、真善美に悖らない愛に満ちた想いを抱くように努めていく、修行としての人生は、想いを整えることが、最重要課題ということができます。

想いが(主として来世以降の)肉体人間の運命を決める。

想いがすべて。

仏教でよく出てくる、愛する人、家族、物に対するあらゆる執着は、結局は人間の本質が神様であるということがわからず、肉体にばかり、目に見える、肌で感じる、いわゆる、五感に感じるものがすべてと感じるから生じてくる。

本当の人間というのは、その本質は、本体は、神様の分けられたお命、すなわち、神様であると感得することができれば、この世の肉体も、肉体が 20 才までの成長の後に、徐々に衰退していくことも、やがていつかは肉体が朽ち果てて死に至ることも、過去世で抱いた様々な誤った想いの今生への病争貧苦としてのあらわれも、すべては、輪廻転生を通してたくさんの人生を経ていくために体験していく、通りすぎていく出来事(=五井先生のいう消えてゆく姿)であり、神様の分けられたお命そのものは変わらない。

肉体人間として、この世に動物のように生きがちな性質を与えられても、これを克服して、五感に感じられることに対するあらゆる執着から解き放たれて、本当の人間は神様だったんだ、肉体人間として、迷いに迷い、様々な紆余曲折を経ても、こっち(神様)が本物だったんだ、実態だったんだ、とわかれば、肉体にまつわる、衰弱、死、肉親や近しい人、その生活にかかわるあらゆる物に対する執着から解き放たれることになる。

自分が神様の命を肉体を場として働きながら、様々な喜怒哀楽、病争貧苦に周章狼狽、右往左往しているのも、単なる迷いに過ぎなかったんだ、となれば、安らかな、安穏な境地に至ることができると考えられる。

ただ、言葉では簡単にこのようにあらわしてみても、実際に悟りを開くようにして、感得しないとこれはわからない。

そうした境涯というのは、体験した人でないとわからない。

残念ながら。

仏教には、そうした境地に至るための修行方法が大別して、2 つある。

それが、お釈迦さんのような自力で様々な修行をして戒律を守る難行道と、浄土門の易行道となっている。

ざっとまとめると、要するに、私達肉体人間として抱く想いを、真善美と愛に悖らないように想いを整え、最終的には肉体にも、肉体にまつわる五感で認識されるあらゆる事象(人と物や名誉などを含む)を取り払って、自らの身に起きてくる、世の中に起きてくる様々な出来事に、右往左往せず、周章狼狽しない、安穏な境地に至ることを目指して、進化・向上していくのが私達に求められてくる内容、特に仏教は、と言えるでしょうね。