第 1 章 世間のルールになじめない
1.自分の心次第で
ブログの表題をブッダの言葉として書くと、かなり字数をくい、表題そのものが長くなっていまうので、便宜上、ここでは、仏言葉として、それぞれに 001 から 100 までの通し番号をつける形にする。
では、はじめる。
以前書いた( 369_法悟28-0-2 )のだが、ここで、改めて法句経(ダンマパダ)の章だてについて記しておく。
以下、法句経(ダンマパダ)の目次を参照にして、通し番号だけでなく、どの章におさめられていたかを一言書き加えていくことにする。
でははじめる。
法句経(ダンマパダ)の内容は、以下の通り(表記など改変あり)。
第01章 対句 (01~20)
02 励み (21~32)
03 心 (33~43)
04 花にちなんで (44~59)
05 愚か者 (60~75)
06 賢者 (76~89)
07 まことの人 (90~99)
08 千という数にちなんで (100~115)
09 悪 (116~128)
10 暴力 (129~145)
11 老い (146~156)
12 自己 (157~166)
13 世の中 (167~178)
14 ブッダ (179~196)
15 幸せ (197~208)
16 愛しきもの (209~220)
17 怒り (221~234)
18 汚れ (235~255)
19 道理に従う人 (256~272)
20 道 (273~289)
21 さまざまなこと (290~305)
22 地獄 (306~319)
23 象にちなんで (320~333)
24 激しい愛着 (334~359)
25 出家修行者(比丘) (360~382)
26 行い清き人 (383~423)
以上の章ごとの見出しを、従来の通し番号、そして、これからの通し番号に附記していくことにする。
前置きが長くなったが、以下、改めてはじめる(一部改変などあり)。
心はすべての物事に先立ち、
すべてを作り出し、すべてを左右する。
もし、人が汚れた心で
話し、行動するならば
その人には苦しみがついてくる。
車輪が、荷車を牽(ひ)く牛の足跡についていくように。
(一) (第01章 対句 より)
ついでなので、対立する(対句となる)経文もあげておく。
心はすべての物事に先立ち、
すべてを作り出し、すべてを左右する。
もし人が、清らかな心で
話し、行動するならば
その人には、幸せがついてくる。
影が、体を離れることがないように。
(二) (第01章 対句 より)
佐々木さんは、こうした法則から、心を清らかにすることが、苦しみを断ち切り、幸せになるための仏教の考え方だとしている。
ここで言う心は、肉体人間の想いのことを指している。
本来なら、肉体人間の本体たる、神様の分け命そのままに、神様の光そのままに、想いと行いがなされれば、何の問題もなく神様の世界がそのままこの世に映し出されて、地上天国ができるはずのところが、そうはなっていない。
霊界の下層と、肉体人間の想いの集積している幽界と、この世で過去世からたまっているたくさんの肉体人間のこの世でつくりだした神様のみ心から外れた真善美に悖る想いの業想念が、神様の光をさえぎり、汚れたものが反映された乱れたこの世になってしまっている。
しかも、これらの業想念は、あってはならないものとして、時間をかけて(=輪廻転生を通して)いずれは清算して、病争貧苦の形をとりながら、この世から消し去られる宿命にある。
肉体人間のつくりだした想いのうち、神様のみ心に沿うものは、真善美に悖らないものとして、幸せや安楽として、原則として輪廻転生を通して、この世で実を結ぶ。
反対に、神様のみ心に沿わないものは、真善美に悖るものとして、苦しみをはじめとする、病争貧苦として、原則として輪廻転生を通して、この世で実を結ぶ。
こうした形で、自己保存の本能を追加して与えられた肉体人間の抱く想いは、真善美に悖る、悖らないにかかわらず、因縁因果として、原則として輪廻転生を通して、原因と結果として呼応する形で巡っていくことになる。
この二つの対句となっている経文は、こうした内容をあらわしていると解釈できる。
従って、肉体人間として生きていくに当たっては、想いを清らかに保つこと。
これが、肉体人間として、幸せや安楽を得るための秘訣と言える。
これらの二つの経文は、仏教として、こうした生き方をすすめていると解釈できる。
南無阿弥陀仏の祈り一念の浄土門の信仰の仕方や、世界平和の祈り一念のような易行道の場合には、こうした肉体人間としての想いを清らかに保つ難しさに鑑みて、南無阿弥陀仏の念仏一念の生活や世界平和の祈りと守護の神霊さんへの感謝行をすることによって、乱れた想いを浄めて、想いを清らかに近づけていくための効果的で巧みな方法と言える。
私達が神様の分け命から、肉体をまとって自己保存の本能を付与された時点で、原罪のように業想念を重ねてしまうのは仕方のないこと。
しかし、そうした中で輪廻転生を繰り返しながらも、最終的にはこの世に神様の世界を映し出すためにふさわしい肉体人間になれるように霊性を開発するという修行を重ねていく。
神様の分け命から肉体をまとって始まった様々な想いが、その各々の輪廻転生の上がりまでの過程を、どのようにしていくか、その様々な生涯を彩っていく、決めていくことになる。
すなわち、想いがすべてを決定するということ。
言葉はすなわち神なりき(言葉を発する前には想いがある)、ではないけれど、想いは輪廻転生を通した個々の肉体人間の運命を決定づけるものと言える。
従って、私達が生きていく上で、悪い想いを避けて、良い想い、清らかな想いを出していくことが大切だ、ということになる。
それが、これらの法句経(ダンマパダ)にも反映されて部分的に述べられていると言えるだろう。