おぶなより

世界平和の祈りに寄せて

463_やっぱり7

今まで、輪廻転生に関連して、神様のみ心とか、真善美に悖る(もとる。反する)、などなど書いてきました。

これについて書きます。

神様は愛そのもので完全円満、真理に悖り、善に悖り、美に悖ることは一切ない、そうした存在と考えられます。

従って、肉体をまとった肉体人間として生きていても、肉体人間の世界であるこの世を生きていく都合上、排他的な行動をとってしまう根本原因となるところの、自己保存の本能を追加付与されたとしても、その本体が神様の分け命である、すなわち、本質が神様であるならば、こうした真善美に悖る想いと行いはふさわしくない、あってはならないものとなるはずです。

(悟りを開いていない)肉体人間として、よく思いがちなこと・・・。

憎い、欲しい、妬(ねた)ましい、アンチクショウ、コンチクショウ、そして、マウントなどの他人に対しての見下し行為、などなど、真善美に悖るかどうか、わざわざ考えなくても、私達が普通に良くないと思う感情のすべては、神様の分け命を本体とする者としては、すべて本来、抱いてはいけない想い=業想念、となる訳です。

肉体を持ちながらも、霊体や神体のように、とらわれのない、真善美に悖らない、神様のみ心に沿った行いをできるような肉体人間になること。

自己保存の本能をはじめ、各種の制約を受けながらも、肉体人間でありながらも、神様のみ心に沿った想いと行いを自由自在に行える存在になること。

そのためには。

肉体を持ちながらも神様の子供としてふさわしい想いと行いをするようになるためには、
肉体人間として作ってしまった神様の子供としてふさわしくない余計な業想念は、
時間をかけてでも、すべて帳消しとして、消し去るようにしなければならない、
と考えられます。

肉体人間として想い描いたことは、潜在意識である各自の幽体にたまります。それも、各個人の幽体には過去世(前世、前々世、前々々世、・・・の総称)からたくさんのものが溜(た)まっている。

こうした想いが、この世の中において、様々な形をとりながら、あらわれては消え、あらわれては消え、と輪廻転生を通して何度も何度も果てしなく繰り返される。

真善美に悖らない良い想いと行い=良き因縁(原因)は、同じく、良き想いと行いとして実を結び、
真善美に悖る悪い想いと行い=悪い因縁(原因)は、同じく、悪い想いと行いとして実を結ぶ。

これらの中で、特に真善美に悖る悪いものは、守護の神霊さんに浄めて消して頂くもの以外は、すべてこの世にあらわれてくることになる(自分で消せる可能性があるのは、現代なら主として世界平和の祈りと守護霊さんと守護神さんへの感謝行)。

想いは、この世にあらわれないと、この世に成就しないと、消えてゆかない。

もしも、世の中をはじめすべての仕組みがこのようになっているものとするならば・・・。

肉体人間が人類全体として、今まで積み重ねてきた業想念は、一体、どれほどのものであるかは計り知れない。

今のこの世の中の乱れた情景、不幸、災難、などなどから考えれば、今までにいかに業想念が溜まりに溜まっているかが、逆読みをすれば、うかがい知れる、ということになります。

しかも、守護の神霊さんが、その大半を浄めて消していて下さるものだとすると、元々溜まっていた業想念は、もっとはるかに多いと考えられます。

だから、一人でも多くの人に、祈りと感謝行をして頂きたいんですけど・・・。

なかなか、難しそうです。

まあ、とにかく、諦めないで、ほんのわずかでも、地道に祈っていこうと思っています。