第1週 心の法則を知る
7 人間は自分が大好き
もし自分を愛しい者と知るならば、
自分をよく守るように。
智慧のある人は、人生の三期のうち、
一期だけでも自己を修めるものである。
(一五七) (第12章 自己 より)
また、勝手流に独断と偏見を書きます。
この前半 2 行の理屈の展開は、前回の S さんの話も含めれば、こう読める。
まずは、前提条件として。
世の中の構成員が、好い人ばかり、神様のように真善美に悖らず、愛に満ちた人ばかりではない、と読める。
いや、ほとんどの人がそこまでに霊性は高くないという見方をしている。
だから、こちらから危害を加えれば、かなり好い人であろうとも、当然のように反撃してくるだろうし、黙ってはいない。反撃しなくて、我慢をしたとしても、相当なストレスを抱え、恨みを残す事は必定だ。
間違っても、妙好人のように、この被(こうむ)った被害は、自らの過去世の悪い因縁が因果としてあらわれた、阿弥陀様(神様)が自分を仏の子として救いとって下さるためのお計らいだ、ありがたい、と感謝することなど絶対に(近いほど)あり得ない。
つまり、自分が相手に危害を加えたら、反撃の有無にかかわらず、ただではすまないことが、暗黙の前提とされている訳だ。
だから、危害を加えた相手から、反撃を受けたり、恨みを買うことを避けるために、相手に危害を加えることをやめろ、と言っているんだね、これは。
そうすることによって、自らの身の安泰をはかる、それが、すなわち、わが身を守ることだと言っているんだ。
他人に危害を及ぼさなければ、反動としての反撃や恨みを買う(これは将来に向けて禍根を残す可能性がきわめて高い)ことはない、と言っている。
だから、身を守ること=他人に危害を及ぼさないこと、としていると読める。
これは、あれじゃないですか。
今までにも、何回か書いてきたけれど、「やられたくなければやるな」という理屈ですよ、これは。
じゃあ、やられても構わない、特例の場合には、どうするんですか?
例えば、何かの不幸や災難で、絶望のどん底に叩き落とされ、憔悴しきって自殺したくなったような人。そして、ノイローゼになって、自殺願望のある人。
この人達は、危害を加えられることを受け入れる素地が十二分にありますよ。
だって、生きていたくないほどに辛くて苦しんでいる人達だから。
だからと言って、こうした人達に、危害を加えてもいいことには、ならないでしょ?
これをどう説明しますか?
さらに。
もしも、「やられたくないならやるな」なんて理屈はクソくらえだ、俺はそんな世界観や倫理観は持たんぞ、という人がいたら、どうするんですか?
いかに、肉体人間には、自己保身の本能が根深くあると言っても、これに訴えかけるような理屈立てが通用しないことになるんですよ。
つまり、この「やられたくないならやるな」の理屈は、万能ではない、普遍性がない、ということになるんです。
明らかな例外がいくつも出てきてしまうからですよ。
前に書きましたけど( 368_法悟28-0-1 )、法句経一日一話 の前書きで、お釈迦さんが、真理について、
「普遍的でなければいけない。
矛盾があってはいけない。
例外があってはいけない。
誰もが実践できることでなくてはいけない。」
と書いてありましたよね。
揚げ足を取るようですが、明らかに、普遍性がないし、例外があるし、場合によっては誰にも実践はできないことになるんですよ、これは。
違いますか?
ということは、守れるか否かは、別にしても、この「やられたくないならやるな」は真理とはいえないことになります。
位置付けとしては、修養みたいな強く心がけるべきもの、までにしかなりません。
まあ、一種の遵守すべき規範といったところでしょうか。
従って、やや、理由づけが弱いんですよ。
これを別の見方、つまり、肉体人間の保身に重きを置かない見方で見ると、どうなるか?
私達肉体人間は、神様の分霊を本体・本質とするものであり、この神様の分けられた命が肉体に働きかけているからこそ生きている者であり、元は一つ、神様の子供としての兄弟姉妹、肉体をまとっていても、本来ならば、互いに愛し合い、慈しみ合い、尊重し合い、協力し合って、神様の世界をこの世につくりあげていくべき者としたら、どうなるか、です。
こうした見方をした場合には、肉体人間としての他人に、危害を加えることをやめられるか否かは別にして、強い理由が見つかります。
こうした見方からすれば、他人に危害を加えたり、ましてや、暴力を加えたり、殺人をするなどもっての他、ということになります。
だからね。
こうした「やられたくないならやるな」の論法は、厳しい言い方をすると、神性(仏性も同じです)を否定した唯物論のやり方に見えるんですよ。
あくまでも、その理論の根幹は、自らがやられたくないがための、利害得失計算にしかない、と。
教条主義的なきらいは、多少はあるかもしれませんが、霊性を肯定した、神性を肯定した見方でないと、理由づけも弱いし、スッキリしないんですよ。
だいぶ前に書きましたけど、私が進化生物学者や動物行動学者の人達の主張を苦々しく思っていたのは、肉体人間をあたかも動物と同等に扱おうと、神性を否定するかのような主張を躍起になってしているように見えるからです。
彼らの思惑はこうでしょう。
彼らも不思議なことに(?)神様を絶対者として(無意識に)暗黙の前提としている。
神様が、人間や動物をはじめあらゆるものを創造し、その行動も遺伝子もプログラムしていると。
これらが共通している、あるいは、肉体人間に援用されているんだから、肉体人間なんかこんなものだ、のように規定して、そのエゴ的な行動やあたかも不倫を肯定するかのような愚かしい結論を導き出す。
こうすることで、彼らは、結果的に肉体人間の神性を否定しているように私には見えるんですよ。
神様や仏様の存在を万人にわかる形で証明できないからと、認めないでいるから、こうした主張が唯物論として、出てきているように思えて仕方がないんですよね。
S さんは、仏教界のお偉方でしょう。それなのに、神性(仏性)を否定するかのような表現、すなわち、肉体人間を遺伝子の奴隷云々などと言ってしまうと、まるで唯物論者のようではありませんか。
宗教者は、あくまでも、神性(仏性)を肯定する、すなわち、尊重することを基本に据えるべきではないのですか。
そう思うんですけどね。
だから、私は前に書いたんです。
人間は動物そのものじゃない。
人間は遺伝子の乗り物じゃない。
と。