おぶなより

世界平和の祈りに寄せて

029_わかりやすく

文章読みのいくつかの点で触れましたが、本来必要もないのに、余計な形容装飾をしたり、わざわざ難解な語句を用いたり、それまでロクに使われていなかった(つまり、それまで該当して使われていた平易な日本語がちゃんとあったのに)訳のわからない外来語みたいなものを登場させたり、と文章内容の伝達を少しでも阻む言葉の乱用を見ると、どうしても不快感がこみ上げてくる(まだまだ、修行が足りないので)。(*1)

例えば、もうお亡くなりになりましたが、かつての大御所自動車評論家徳大寺さんのメルツェデセスベンツの表記や、他にも時折見かけるヴァイオリンの表記にもこの匂いを感じる。

下目線から言わせてもらえば、メルセデスベンツ、バイオリンで十分ですよ、あれは。

だって、わざわざそんな表記をしなくたって、そのものの絶対的な価値は決して揺らぐことはないんだから。

何でわざわざああいう表記をするのでしょうか。

カッコづけ?

外国語が凄まじく堪能で、完璧な発音表記に少しでも近づかないと、どうしても気がすまないという特別な性質?の方ならともかく、そうでない限りはご遠慮して頂きたいし、どうしても使うなら仲間内や内輪(プライベート)に限ってもらいたいのです。(*2)

パソコン用語のように、日本語を充(あ)てるのは、却って不自然だったり、無理があるような場合、または、元々日本語にはないために引用が適切な場合ならば、仕方ないと言えますが。

論旨の運びにしても、本の標題を理解するのに、やたらと時間をとらされたり、煙に巻くのか、明言を避けているのかは知りませんが、あまりにも回り道をさせられると、本題にたどり着かないうちに、心が折れてしまうのですよ。

もっと手厳しく言えば、読者に余計な手間を強い、不必要な混乱をもたらし、作品自体もその質の向上や霊性の向上に、何ら寄与することがない行いに過ぎないはずですよ、こういったものは。

つまり、作者、読者双方に、かなりの時間と手間の無駄を招いているということになるんです。(*3)

更に身勝手な希望を言わせてもらえば、難解な語句も見慣れないカタカナ文字も、どう考えてもこれ以外に相応しいものがない、これからは読者のためにもなる(≒勉強にもなる)か否かを、よくよく吟味、検討した上で、可と判断した場合にのみ使ってもらいたいのです。

まして、それまでまったく流布したこともないような、訳のわからない見知らぬ標語を、突然祭り上げ、無理矢理に流行の雰囲気を作り、これに乗っかって自分の主張を通すといったやり方は(商売だから、仕方ないのかもしれないが)、勘弁して頂きたいのです。

まあ、かつてはあるコピーライターさん(元の井上ひさしさんとつかこうへいさんの対談本でも、さるコピーライターとしか書いていなかったので、どなたかわかりません)が、六十字書いて百万円というのは、足りない、と冗談半分に書いていた時代もあったらしいので、あまりにも大きなカネが動かせたり、その魔力に取り憑かれたりすると、やりたい誘惑に駆られるのも、仕方のないことかもしれませんが。

まかに間違って?一発当てれば、一儲けできる(本を売る、評論その他諸活動ができる)ぞ、と。(*4)

それでも、そこで敢えてとどまった、トロき者、下方の者にも、もっと優しく、思いやりのある、誠意を持った内容の本が増えることを願っているのです。(*5)

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(*1)昔の文豪で、難解な語彙(ごい~ある言語・領域で用いられる語の全体)を使い、さすがだ、と認知させていた権威を振るった大御所(菊池寛さん)がいたらしいので、霊性が未開発な肉体人間が無意識にとりがちな一般行動なのかもしれません。

コピーライターの件の先の本でも、対談者のお一人つかさんは、ペンネームがすべてひらがななので、新聞に執筆していた時に、読者からつかこうへいなんて安っぽいペンネームはやめろ、と投書されたことがあったそうなので、読む側の意識もまだまだだな、と感じました。

(*2)今もあるのかどうか知りませんが、かつて国語審議会報告で、外来語の表記というものがありました。

こう言っては、語弊があるかもしれませんが、あの手の表現をわざわざお使いになる方が、この外来語の表記を律儀に参照しながら、ヨコ文字を使うとは思えないんですけどね。

その時の気分やノリで、簡単に使い始めたのではなかろうか、と。

ご本人は、どんなお気持ちだか知る由もないですが、伝達をブレさせる、もっと言えば、重要な意味合いもなく、伝達の本質を歪める行為は頂けないものなのです。

あまりにも、ガチガチにして遊びがないのは、自由がなく窮屈だ、と思う方がおられるのかもしれませんが、お笑い、おふざけでない以上は、誠意を根底に据えた無駄なし路線が、好ましいことには変わりがありません。

その基本が十分に満たされてさえいれば、百回に一回くらいは特別に気の利いたシャレと一緒にハメをはずしても、いいかもしれませんが。

(*3)だから、簡にして要を尽くし、意味内容をよく吟味して、理解しやすさを維持しながら、可能な限り内容を凝縮し、その伝達の仕方にどこまで誠意があるかを謙虚に省みる、といった方向を目指す方々が増えることを願っています。

(*4)読んだ本の中には、共感殺到!のようないかにも煽動的なオビや、付和雷同の国民性につけこんだ○○万部突破!!の強迫観念や焦燥観念に訴えそうなオビのついた本が、実はいくつもあるんです。

やはり、出版社や営業の意向なんでしょうが、あまりやり過ぎると、加重限界効用逓減の法則で、飽和状態になるんじゃないですかね。

ちなみに、この法則は、大雑把に言うと、初期効果が段々に減っていくことです。

初めは、新鮮で驚きや感動があっても、段々とその程度が減っていきますが、これを指します。

初めは、衆目の目を惹き付けても、あまり乱発すると、またか・・・になりかねないのではないか、と。

商売人気質で、井戸が涸(か)れるまでは、やり続けるのかもしれませんが。

先の勝手に標語創作商売の例でも、新ナニワ金融道外伝の桑田社長のような人が実在したら・・・。

ハッタリを効かせて流れを引き寄せ、ゼニ儲けをすることのどこが悪いんじゃい、世の中は資本主義教なんじゃぞ、ワレ!と逆にどやされてしまうかな。

(*5)私自身、教養がないのが、まず何よりの理由です。

しかし、小うるさいことを言うのには、もう一つ理由がある。

私の母は、普通の人だがあまり向学心のある人ではなかった(伯母(母の実の姉)によると、母は中学時代はさして勉強せずとも国語、英語等の成績がよかったらしい。私は、中学時代、英数がダメで、たまたま同じ公立校の別クラスに入っていた中学時代の級友が、アイツはバカだと言ったのを伝聞した程勉強は嫌いだった)。

だから、母は社会について、論じたり云々することはなかったが、テレビもそこそこ見たし、新聞も読んでいた。

しかし、段々に訳のわからない横文字や標語がが氾濫するようになると、家族の何気ない話さえしにくくなってくる(祖母に至っては、そもそも話すのを躊躇したし、わからないし、わからせるまで説明するのが大変なので、その手の話を避けるようにしていた)。

母は、標語を別段気にも止めない感じだったし、実際、何の文句も言わなかった。

それでも、私は努めて言葉を平易に分かりやすく言い換え、話すようにしていたが、内心イライラすることが多かった。

何をたいした意味もないくせに、物事をわかりにくくするんだよ、ちゃんと誰にでもわかる言葉で提案してそれから選ばせろよ、と。

価値も意味も不明なものを、あっさりと素通りさせる母の方が人間ができていたとは思うけど、何とも割りきれない感じがしていたのです。

別に、日本語だって出自はわからないんだし、すべての外来語を使うななどと野暮なことを言いたいのではありません。

ただ、濫用ぎみの標語を使ったことのある方がおられれば、立ち止まって一考して頂ければ幸いです。

不言実行、中身で勝負、誠意でお願い致します。

ちなみに、こんなことは書きましたが、私もヨコ文字やカタカナを随所に使っています。

実は、外観(見た目)や読みやすさを考えて敢えてそうしています。

ひらがなや漢字よりも、この方が他の語句と混同しにくく、区別して見やすく、意味もとりやすいかな、と思ったものを、とりあえず、カタカナにしています。

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①追記: 2022/08/28 02:52
②追記: 2024/03/20 11:41
③追記: 2024/03/20 11:44
④追記: 2024/03/24 18:10
〜訂正内容〜

上記複数回にわたり、本文を加筆・訂正しました。