おぶなより

世界平和の祈りに寄せて

028_情けと霊性

情けは人のためならず。

人様に善きにはからい、尽くしておけば、その恩恵が必ず巡って戻って来ますよ、ということですね。

一時は、やたらと人様に情けをかけるのは本人のためにならない、と誤解された向きもあったようですが、本来の意味はこちらです。

ちなみに、字引によると。

人に親切にしておけば、それが巡り巡って必ず自分に良い報いがあること、とされます。

誤解された意味で使うことは、誤用となっています。

で、最近はこれを推奨する文章を見かけるけど、その心はどうなっているんでしょうか。

言い方は悪くなりますが、どうもこれを、単なるカルマ法則や処世術ぐらいにしか、考えていないようにも見えるんですよ。

気分も含めて自分自身の利益になるから、そうした方が得になるからといった、自分の身の回りのエゴ計算の発想止まりなんじゃないのかなと。

これでは、霊性の開発のできていない私達一般(修行している人はすみません)には、単なるカネ儲けや、異性獲得、地位向上とさして変わらない次元の扱いにしか見えません。

物質次元、更には精神次元の損得勘定までをも度外視して、ごくごく自然な行いとして為すこと、即ち、霊性が開発されて自(おの)ずから滲み出るような自然な行いに昇華されることに言及したものが見当たらないように思うんですよ。

巡り巡って戻る利益のためにしか、打算ですることしか、考えてないような。

しかし、本来ならこうした行為は、何も意図しなくとも、日々の何気ない自然な振る舞いとして、妙好人の人々のように、神仏の子としての善行としては、当然に含まれるもののはずなんです。

確か、最近流行りかどうか、ワンネスというのがありますね。

あなたは私であり、私はあなたという。

あれは、神様の分霊(わけみたま)の集合体のことでしょう。

あなたも私も、同じ神様の命のわかれであり、同じ神様の分霊を頂いている神様の子供であり、兄弟姉妹なんですよ、と。(*1)

なので、本来ならば、何の損得勘定のような利害打算がなくとも、ともに愛し合い、慈しみ合い、助け合うのは当然ですよ、と。

まあ、個別の様々な事例にもよるので、一概には言えませんが、当事者同士で何代にもわたる激しい因縁因果の確執でもない限りは、この基本は、変わらないでしょうね。

実際、因縁因果が果てしなく多岐にわかれてしまっているので、とてもと言うか、到底、実感などできないことなんですが。

唯物論の理屈や損得勘定だけでは腑に落ちなかった話が、こうした霊性レベルまで掘り下げることで、よく理解できるようになると思います。

だから、計算ずくではなく、この話を取り上げる人は、ご本人がハッキリとは意識せずとも、霊性のことが何となくわかっているんでしょうね。

ご本人も、それなりに、霊性が高めの人なのでしょう。

ただ、この利害打算ではない行為の意義を、肉体界(現界)や想いの世界の幽界レベルで、よりハッキリと理解できるようになるためにも、霊性の開発をして頂きたいと思います。

あと、気をつけるのは、やたらな好意の押し売りをしないことですね。

あまり、しつこいことや強引なことをして、相手の自尊心を傷つけたりしたら、元も子もないですからね。

でも、そのためには、日頃からたゆみのない観察力や洞察力を磨き、瞬時の正しい判断力も必要になるだろうし、これを会得するには、それなりに時間とカネと手間隙がかかり、迷ったり、紆余曲折を経たり、と唯物論的にも結構大変なものになるんでしょうね。(*2)

そのためにも、霊性の開発をして頂いて、祈りや日頃の行いで、守護の神霊さんが使いやすいような体になれば、何気ないよき行いが、自然に出てくるようになる(当意即妙になれればベスト) (*3)のですから、霊性の開発が、やはり好ましいとなりますね。

心がけ次第ですから、お金もかかりませんし。

人様の自然な笑顔を見るのが、なぜ気持ちがいいのか、人様を喜ばせるのが、なぜ嬉しくなるのか、といったことを、理解するためのヒントが詰まっていると思います。

なので、やっぱり、霊性の開発をお願いしたいと思います。(*4)(*5)

~~~~~

(*1)過去世からの因縁因果の違いや、魂の分割や結合による大きさの違い、守護神さんの光の大きさの違いはあっても、本体が神様の分霊である本質には、何ら変わりがないからですね。

(*2)作家の森村誠一さんは、ある新書で、男の気くばりとして、各種の気構えや工夫の仕方を懇切丁寧に取り上げていましたが、あれはご本人(森村さん)の資質もさることながら、彼の父親の施した徳の影響がかなりあるのではないかと思います。

作為や損得勘定を抜きに、人様に色々とよくしてきたことが、様々な面で息子さん(森村さん)に返って来ているのではないのかな、と。

あの本を読むと、森村さんは、子供の頃から自然に多様な人間観察の場を与えられていて(就職先も、様々な人間の交錯するるつぼたるサービス業のホテルだった)、作家になるべく運命づけられた人なんだな、と感じましたね。

自己啓発西田文郎さんの他喜力を見ると、未だに眼目が自己実現にあり、その成果を挙げるためにことを為すといった側面が、まだまだ強いと感じたました(もちろん、動機はともかく、行いは素晴らしいことだけど)。

人様の目を気にしてことを行うのではなく、誰かに強いられて行うのでもなく、目標達成(試合や競技に勝利すること)の手段として行うのでもない。

普段からの何気ない自然な振る舞いの一環として、さりげなくとの境地にまでは、まだまだ、到達していない感じでした。

(*3)これは、いわゆる、狐憑きや迷った霊の憑依現象とは違います。

いわば、妙好人因幡の源左さんの法話と同じかもしれません。

皆の調和を乱さず、人様のためになる話をスルスルと話させてもらう(源左さんは、親様(如来様)のご恩と言っていた)。

あれが、その一例となるでしょう。

(*4)お人によっては、茨の道になるかもしれませんが、因果を乗り越えることができれば、あとはある程度順調になるのではないでしょうか。

苦難の乗り越え方も、最善の道を守護の神霊さんが選びとって下さるはずですから、お任せするしかないでしょうね。

少なくとも、神様も何も知らず、当然、守護の神霊さんのことも知らず、行き当たりばったりで、厳しい因縁因果に翻弄される唯物論者の方々よりは、目にはみえなくとも、ずっと恵まれる訳ですから。

もちろん、こうした仕組みを知らない唯物論者の方々にも、守護の神霊さんのご加護はある訳ですが、仕組みをとりあえずは理解して感謝行をしていくことが、より守って頂きやすくなるためにも、好ましいということです。

残るは、その方の気持ち次第ということで・・・。

(*5)とは言うものの、仏教の浄土門妙好人の源左さんや才市さん、宇右衛門さん達のような境地になるのは、実は大変なことです。

この世(現界)や幽界(想いの世界)での悪いことは、すべて自らの過去世の因縁に対する因果として、如来様のおはからい果たさせて頂いた(過去世で作った悪い因縁を祓(はら)い浄めて仏性を磨いて頂いた)と感謝し、また、善きことには、またまた、阿弥陀如来様のご慈悲だ、ご恩だ、ありがたや、ありがたや、と素直に感謝する、という無我の境地にまでなるのだから。

自らに起きてくる善いことも悪いことも、阿弥陀如来様が自らの仏性を磨いて、救いとって下さるためのおはからいなのだ、ありがとうございます、と。

ちょっと、できませんよね。

いくら一生懸命信仰しても、思い通りにならなかったり、不幸災難に見舞われると、どうしたって神様を恨んだり、呪ったりするのが、ごく普通なんですから。

しかも、彼らはありがとうございますとただやみくもに感謝するのではなく、ありがたい意味合いをそれなりに理解している(かなりの念仏行を通して体感されたのでしょう)。

阿弥陀如来様は、仏の子としての自分には、絶対に悪いことはなさらない、という確固たる信念ができなければ、ああはなりませんよ。

一般的な敬虔な宗教信仰者でも、これほどまでの人は、そうはいないのではないでしょうか。

まして、唯物論ではどんなに修養しても、この世の利害打算が絡まる善悪良否の判断を逃れられないために、人格者としての源左さん達を超えることはきわめて難しい。

やはりこれは、神仏を介在させた信仰生活による賜物だと思うんです。

今の、モノと欲に取り囲まれてしまい、何かと誘惑の多い私達には、しんどい修行になるかもしれませんけど。

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①追記: 2022/08/28 02:52
②追記: 2024/03/20 11:30
③追記: 2024/03/24 10:03
〜訂正内容〜

上記複数回にわたり、本文を加筆・訂正しました。