ちょっと、読書感想文を書きます。
前回の ( 156_原仏8ー6 - おぶなより ) で、お釈迦さんは、神々も世間の人々も悪魔の軍勢を破り得ないが、わたくしは智慧の力で悪魔の軍勢を打ち破る、としていました。
世間の人々なら悟りに遠いのはまだわかりますが、神様ってそんなダメな存在なんですか?
この経典の文句が本当ならば、お釈迦さんも、ずいぶんとしょっていますよね。
神様より明らかにご自分の方が上だ、と言い切ってしまっているのだから。
原始仏教経典のスッタニパータでは。
お釈迦さんが悟りを開き、神霊の体ではなく、肉体という身体をまとうという、ものすごく不利な条件を課されながらも(肉体人間という一大ハンディキャップを負いながらも)、神霊そのままの想念と行為をあらわし得た、という偉大さから、肉体をまとったことのない神霊さんから尊敬を集めるにしても、なんかちょっと行き過ぎのような気がしないでもないような・・・。
あとにも出てきますが、梵天という神様もお釈迦さんに対して、人々の教化を懇願するんです。
梵天という神様が、しかも絶対的な高位(高い地位)な神様が、お願いをするのですから。
まさか、あれら(お釈迦さんは悪魔を退けることができるが、神々はできないとされることと、梵天という高位な神様が、人々の教化を折り入ってわざわざお釈迦さんにお願いするということ)は後世の経典作者の創作で、お釈迦さんのことを、なんでもかんでも絶対者として祭り上げたいために、勇み足をしたなんてことはないですよね?
ところで。
五井先生的にいうと、確か、神様は大まかに二つにわけられます。
法則の神と救済の神です。
法則は、あらゆる生命や宇宙をはじめ、すべてのものを司る、与える形の神様ですね。
それに基づいて、私達の因縁因果も、地球も、宇宙も、もう、あらゆる星々も運行されている。
いわば、与えられた規則だから、変えるわけにはいかないらしいんですね。
たとえば、肉体人間の都合で、ああしてほしい、こうしてほしい、と勝手に願いをされて、いちいち聞き入れていたら、法則もぐちゃぐちゃになり、おそらく、宇宙の運行もめちゃめちゃなことになってしまう。
だから、法則は変えない、と。
そして、神界から、徐々に神様の光か降りてきて、霊界、幽界、現界として、今私達が五感で感じる物質界たるこの世がある訳ですが、この世、今の地球のような世界を、神様の世界そのままを映し出すまでには、たくさんの段階があって、そう簡単にはいかないらしいんですね。
特に、五感で感じる物質世界を徐々に引き上げて開発していくために、肉体という粗い波動をまとい、自己保存と生殖をはじめとするやや排他的な動物的な本能を付与された私達は、その本体たる神様の完全円満、真善美に悖らない、想いと行いに程遠い、業想念による想念と行為を積みに積んでしまっているからです。
で、この業想念とそれにもとづく行いは、決してそのまま放置されることはないんですね。
なぜならば、この神界、霊界、幽界、現界はすべて神様がおつくりになったものなのだから。
現界、時系列的に言えば、この世で私達がなしてしまった、真善美に悖る想念と行為は、清算して消し去られる定めにあることになるんですね。
神様の世界には、完全円満に悖る、真善美に悖るところの、あらゆる想念と行為は、本来は無いもの、あってはならないものだから。
波動を粗くして、本来はなかった、肉体世界を開発する便宜上与えられた自己保存や生殖などの動物的な本能のために、業想念を生じ、真善美に悖る行為をすることになってしまった。
しかし、これは本来はあってはならないものだから、隔世をする形で、あらわれては消え、あらわれては消え、と順次消されていく、と。
ただ、隔世という、輪廻転生を通した「時間差がある」ために、このことがなかなかわからない。
何か真善美に悖るよからぬことをしたとしても、この世ですぐに、その清算がなされない、来世以降に持ち越しになることが大半だからです。
だから、世間でよく言われる、バチが当たるなんて、わかりやすく、単純な事例は滅多に起きない。
だから、この世が見方によっては、本当にデタラメでムチャクチャが罷り通っているように見える。
現在の世の中に、阿鼻叫喚の出来事が起きたり、不幸災難がそれなりにあるのは、私達があまたの過去世を通して、いかに業想念を積んでしまっていたか、の裏返しであるわけです。
そんなことを言われても、到底理解もできないし、納得できないことなんですが。
こんな、善が栄えない、お世辞にも地上天国とは言えない、この世は、本当に厳しい。
ちょっと、ひどいですよね。
しかし、考えてみればわかるように、私達が普段から、抱く想念と行為を考えても、そのすべてのものが輪廻転生の過程に載るとすれば、地球さんはとっくの昔に滅んでしまっているであろうことは、容易に想像がつきます。
この、過去世からたまりにたまる業想念の現界での具現化を、その前に浄めて消して下さるのが、救済の神になる、守護神さんと守護霊さんになるらしいんですね。
もちろん、なんでもかんでも、浄めて救済して頂ける訳ではないそうなんですが。
ただ、肉体をまとい、あまたの輪廻転生を通して、各自の神霊の魂を汚してしまった分を浄めて、魂をきれいにして、成長させて下さるように、支えて下さっている。
だから、自分で勝手に生きているようで、ずいぶんと陰に日向にお助けを頂いているらしいんですよ。
一般的には、見えない人がほとんどなので、わからないのも無理もないのかもしれませんが。
で、スッタニパータのあの箇所で神々とされたものは、どのような存在なんですかね?
少なくとも、法則の神でないことだけは、確かですね。
救済の神は・・・。
守護の神霊さんが、妄念にそんなに簡単にやられるものなんでしょうか?
業想念にまみれた肉体人間が、守護の神霊さんがいくら救いたくても、五感にまつわる各種の欲に振り回されて、その親心がわからない、それで、業想念を積んでしまう、のならわかる気がするんですが。
どのような神霊を神々と言っているのでしょうか?
これが、ちょっとわかりませんでした。
以上で、第一章 誕生と求道 ー 『スッタニパータ』 (1) を終わります。
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①追記: 2020/11/05 12:05
②追記: 2024/04/13 04:07
〜訂正内容〜
上記複数回にわたり、本文を加筆・訂正しました。