第 5 章 やりたいことが見つからない
67.学びは武器
学び努める人が、この地上界と
ヤマの世界と神々の世界とを征服するだろう
学び努める人々が、素晴らしい真理の言葉を
手慣れた人が花を摘み集めるだろう。
(ダンマパダ) (四五)
(第04章 花にちなんで より)
佐々木さんによると、学び努める人(佐々木さんの訳では学ぶ人となっている)とは、智慧(現代なら悟りに通じる素晴らしい知恵でいいだろう)を磨き正しい生き方や考え方をすることに努める人のことだそうだ。
それで、死の神である閻魔も含めたすべての世界の苦しみを取り除く。
花取りの名人が花を集めるように、学び努める人は真実の言葉を集めて理解することで安楽を実現するということらしい。
やはり、世界のことも神々のことも何の定義も境界分けもないまま、漫然と神々やすべての世界を出してくる。
この解説を読むと、この世もあの世も神様の世界(?)も、みんな一緒くたで、ごちゃごちゃに感じる。
とりあえず。
この (四五) は、内容的には直前の (四四) と対になっていると思うので、改めて、両方を記す。
誰が、この地上界
ヤマの世界、神々の世界を征服するだろうか?
誰が、素晴らしい真理の言葉を
手慣れた人が花を摘むように、摘み集めるだろうか?
学び努める人が、この地上界と
ヤマの世界と神々の世界とを征服するだろう
学び努める人々が、素晴らしい真理の言葉を
手慣れた人が花を摘み集めるだろう。
(ダンマパダ) (四四・四五)
(第04章 花にちなんで より)
今枝さんの注釈によると、ヤマというのは、人類最初の死者で、ここから転じて冥界、ことに地獄の支配者で、死者をその生前の行いによって裁く閻魔王となったそうだ。
こうしたことを、総合的にみてくると、この世で、正しいとされる(つまり、お釈迦さんがすすめるような)生き方に励み努めて、悟りを開いたような人は、
この世もあの世も、神様の世界もすべて理解して超越するほどに、あまねく真理に通じて、
そうした素晴らしい真理をあらわす言葉を状況に応じて、適宜に教える、発することができるだろう、
といった意味合いに解釈できる。
この世にいて、肉体を持ちながらも悟りを開くことは、
肉体人間でありながらも、自らの本体、本質が神(仏)の命そのものであると感得したことであり、
あらゆる肉体にまつわる想いである感情想念にとらわれることなく、
神様(仏様)の想いと行いをそのままに自然にあらわすことのできる素晴らしい人となるので、
真理をあらわす言葉を集めて(わざわざ集めなくても、神様の方から流れてくる光をそのままあらわすので、集めるというのは、ちょっとまだ、悟れていない段階の人のような気もするのだが・・・)状況に応じて適宜に発することも、当然にできるだろう。
大体、こんな意味合いだと解釈できます。
神々とされる方々のように、肉体という粗い波動で、あらゆることをするのになにかと時間がかかる重いものをまとい、肉体にかかわって生じてくることのない方々からすれば、
肉体という大変な煩わしいとらわれを持ちながらも、
神々という神様(仏様)そのままの想いと行いを、(肉体を持つから当然にこの世の中で)あらわせるということは、
この世(現界)も、
あの世(幽界)も、
神様の世界(霊界・神界)も通じて、
一目置かれる存在となる、
ということじゃないですかね。
確か五井先生の本にあった(どの本か忘れた)、神様がお釈迦さんに敬意をあらわして礼拝するというのは、こうした内容だったように思います。
それがこれらの経文では、すべての世界を征服する(失礼ながら、征服って、あまり適切な表現には思えないんだけど、個人的には)とされているものと思われます。
ちなみに、征服を字引で引くと。
征服~せいふく~①従わない相手を武力などで従わせること。
(用例)敵を征服する。
②困難に打ち勝って、目的を果たすこと。
(用例)エベレストを征服する。
ということは、少なくとも、②の意味ではありませんね。
消去法で、①ということになってしまう。
これはまずいのではありませんか。
征服や折伏(しゃくぶく)は、相手を力ずくで屈服させるという意味を含みます。
力ずくで相手を屈服させるということは、元々、不調和だったものを、無理矢理調和させるということです。
つまり、これは真善美に悖るのではありませんか。
屈服させられる側が、納得できない場合や、万が一、恨みを抱いたらどうするんですか。
こうした感情は、真善美に悖る想いと行いの業想念なのではありませんか。
争いを生じること。
(後々の)争いの原因をつくること。
これは、神様のみ心には、適わないのではありませんか。
折伏とは、仏教語で、
仏法の力で悪を屈服させること。
相手を説き伏せて信仰の道に導くこと。
とあります。
しかし、本来なら、説き伏せるのではなく、相手自身に悟らせる形で納得させ、自ら身を引かせて、調和に至らせるのが本来あるべきやり方なのではありませんか。
少し前にお釈迦さんと悪魔・悪しき者(以下、悪魔と略)とのやり取りを扱いました( 531_仏言葉ー064 ー 今を生ききる )。
あそこを見る限り、悪魔が、お釈迦さんの頃合いを見計らって、勝手にやってきて、それをお釈迦さんが排斥するという形になっていました。
お釈迦さんが、勝手に出向いて行って、徹底的に悪魔を攻撃したり(お釈迦さんは相当な神通力の持ち主だったので、こうしたこともやろうと思えばできたと思われる)、掃討した形にはなっていない。
さすがに、悪魔は、簡単には引き下がらないし、相当な手練れと認識していたためか、お釈迦さんが強い語調(?)で退けてはいるが、戦いというまでの感じはしない。
多分、一般的な私達は、まだまだ、浄まっておらず、かなりの業想念があるためか、単純な勧善懲悪もの、善と悪の戦いものが、大好きなように思われる。
あまり、地味だったり、辛抱強さを要求されるのは、苦手なように思われるのですよ。
しかし、調和や安楽、安穏を旨とするならば、やはり、折伏や降魔の利剣というのは、どうもあまり馴染まないような気がするんです。
これは、あくまでも、私の独断と偏見なので、その点は、ご容赦願います。
失礼致しました。