おぶなより

世界平和の祈りに寄せて

208_原仏12ー21

前回 ( 207_原仏12ー20 - おぶなより ) の続きです。

Ⅱ 人生の指針 第一部 人生の指針
一 真理について
二 慈悲について
三 解脱について
四 幸福について

四 幸福について の続きになります。

なお、便宜上、
本でなされている内容及び解説を、(A) と記します。
また、私の文を (B) と記します。
あらかじめ、ご了承頂きますよう、お願い申し上げます。

修養と、清らかな行いと、聖なる真理を見ること、安らぎを体得すること、
ー これがこよなき幸せである。

(二六七)

(A) 安らぎというのは、ニルヴァーナを訳したものですが、ここに出ているように、世俗の人でも、究極の達しうる境地は、やはりニルヴァーナと呼んでいました。

(B) この中村さんの解説からすると、お釈迦さんのお弟子さん達、あるいは、仏教に帰依しない他の修行者で、ブッダになった者以外にも、世俗で、つまり、修行者ではない、世間一般の人達でも、覚者になることができた、悟りを得ることができた、ということなのでしょうか?

体得とは、感得で、すなわち、悟った意味合いにも読めるのですが。

時代はずっと下りますが、一生、必死に修行に励んでも、悟りを得られず、残念に生涯を閉じたお坊さんもたくさんいたと思うのですが。

イシダーシーさん達のところでも感じましたが、そんなに簡単に悟りを得ることができるものなのでしょうか。

いくら都市や商業が発達したといっても約 2500 年も前のことです。現代よりははるかに生活の便利さはなかったでしょう。生活の複雑さもない分だけ煩(わず)わされることも少なく、修養には、向いていたかもしれません。

しかし、修行者にもならずに、厳しい戒律や生活態度で自らを律しないでも、修養のみで、悟りを得ることができるものなのでしょうか。

(法然さん以降の言い方で言えば)易行道・他力門・浄土門ならわかる気がするんです。

煩瑣な日常生活の中にあっても、ただひたすら念仏を唱え、阿弥陀如来様に帰依して、一体となるようにして、かなりの境地に達した、妙好人因幡の源左さんや、才市さんや、宇右衛門さんのような人達がいたのですから。

これが、自力、すなわち、難行道・自力門・聖道門の修行者の形を取らない、修養のみで、世間一般にいて、悟りを得られるのか?

ちょっと、納得しにくいんですけど。

この点を、つまり、当時は修行者にならない、易行道などがなくても、修養のみで、悟りを得ることができたものなのかどうか、中村さんには、はっきりと言及しておいて欲しかったです。

で。

悟りを得れば、俗世間の日常生活にも、人間関係にも、煩わされずに、穏やかな心持ちで生活できて、当然に日々の行いも清らかなもの、すなわち、人様も自分も損なうことなく痛めることなく、つつがなく円滑な人間関係が築けて、お互いに尊重し合えるような好ましい状態になると考えられます。

だから、幸せだ、ということなのでしょうね。

次です。

世俗のことがらに触れても、その人の心が動揺せず、憂いなく、汚れを離れ、安穏であること、
ー これがこよなき幸せである。

(二六八)

(A) 我々は絶えず世俗の事柄に触れていますが、しかも汚されない、ということが大切です。

(B) もう、ちょっと面倒くさいので、現代風に言わせてもらいます。

自分の生活のみならず、世間一般の生活、諸々のものすべては、業想念に満ちています。

細かいことから始まって、あらゆることにああでもない、こうでもない、と思いを巡らせ、場合によっては人を裁いたり、批判したり、怒ったり、悲しんだり、と感情を揺さぶられることも、多々、あるかもしれません。

しかし、これは、すべては過去世の因縁の、この世での時を経て消えてゆく姿で、あるのは神様のみ心と生命だけだ、と悟ることができれば、あらゆる世間の喜怒哀楽を伴う出来事に、とらわれることはなくなります。

裁くこともないし、悲しむこともない。

もちろん、悲しんでいる人達に思いを馳せ、少しでも早くよくなるように、祈り心を出すのはいいのですが、振り回されて、自らの感情を乱すことはしない。

中村さんの言っている、汚れされる、とは、このことを言っていると思われます(しかし、経典そのものの言葉なのか、訳による言葉なのかわかりませんが、汚れという表現はちょっと・・・)。

なので、刺激的な出来事、暗い出来事を、派手にたくさん流され、触れやすい現代は、感情想念を乱され、揺さぶられやすい環境にある、と言えるでしょうね。

それでも、あらゆることすべては、消えてゆく姿、と突き放して見る、のはなかなかできません。

やはり、自力にしろ、他力にしろ、悟りを得るか、これに準じるかなりの境地に到達しないと、無理だと思います。

こうした、世間一般のあらゆる出来事にも、自分の身の回りの出来事にも、一切、とらわれずに感情想念を乱されることがない、穏やかで安らかな気持ちでいることができる。

思うのは、ただ、すべての人々の安穏と社会全体がなるべく早くそれに向かうよう、祈り心を出すことだけ。

これがこよなき幸せなんでしょうね。

現世的に見ても、感情想念を乱さないということは、業想念を抱かないことになります。よって、このことは、現在のみならず、来世以降をも含めた自らにもいい影響を及ぼすことにもなります。

だから、幸せと言えますね。

次です。

これらのことを行うならば、いかなることに関しても敗(やぶ)れることがない。あらゆることについて幸福に達する。
ー これがかれらにとってこよなき幸せである。

(二六九)

(A) これらの詩の文句は、すべて「こよなき幸せである」という決まり文句で終わっています。これらは、同類型の詩の文句を集めたものですが、ここに説かれていることは雑然としていて、体系化されてはいません。

ただ最初の仏教徒が、幸せ(幸福。元の言葉では「マンガラ」あるいは「ソーティ」)がどのようなものであるのかということを、手探りで思案しながら、思いついたことをポツリポツリと述べています。

特に体系化した訳ではありませんけれども、この真理によって幸せであれという、その精神がここに具現されているのです。

(B) 修養その他で真理を発見して安らかな境地に到達し(二六七)、世間一般の喧騒に振り回されることもなく、穏やかにいることができれば(二六八)、幸福になれる、という意味なんでしょうか。

中村さんの言っている、体系化の意味は私は教養がないのでわかりません。

ただ、当時の仏教徒がこれだけを、幸福だと考えるとすると、やはり、ちょっと、範囲が狭いきらいがあるのかな、とは思いました。

世間一般には、まだまだ、悟りには程遠い、迷った人々がたくさんいる訳ですから、この人々をどうするのか、という明確な回答に当たるものが、書かれていない。

多分、世間一般の人達に対して、修行者として、よき生き方、よき行いを示すことで、あるいは、何らかの形をとって導く、あるいは、導く手助けをすることが、幸福につながると考えていたのかもしれません。

ここは、よく読み取ることができませんでした。

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・煩瑣~はんさ~こまごましてわずらわしいこと。また、そのさま。

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①追記: 2020/12/14 07:00
②追記: 2024/04/15 22:58
〜訂正内容〜

上記複数回にわたり、本文を加筆・訂正しました。