第 5 章 やりたいことが見つからない
77.学びと謙虚さ
深い学識あり、
技術を身につけ、
身を慎むことをよく学び、
言葉が見事であること
ーこれがこよなき幸せである。
(スッタニパータ)
佐々木さんによると、上記の経文(改変あり)は、仏教をはじめとした多くの知識を身につけ、その上で自慢せずに穏やかに語るべきだとした、お釈迦さんの言葉だそうだ。
中村さんの注釈によると、言葉が見事であることとは、立て板に水のようにしゃべりまくることではなく、相手を恐れずに思っていることが、自由に口をついて出ることで、この態度は仏教では常に尊ばれたそうだ。
相手を恐れずにというのがよくわからないが、思っていることをそのまま話す以上、感情想念が乱れている落ち着いていない状態ではない、つまり、業想念を生じていない浄まった状態であることは間違いないですね。
これは、要するに、悟った状態か、あるいはこれを目指してかなりの修行を積んでいる状態で、自らの感情想念を乱すことなく、その場、その場で相手のためにもなり、自分のためにもなる、真に適切な言葉がつむぎ出される意味合いだと思います。
こうした言葉を話すには、どうしてもそれなりに、かなりの程度、身を修めている必要があるからです。
なお、中村さんの注釈によると、現代人も同じように知識を習得して向上する努力は必要で、「深い学識があり技術と訓練をよく学び受けること」が尊ばれるのだそうだ。
さらに、同じく中村さんによると、後の大乗仏教にある「六度」という徳目の最後にある智慧は、世俗の技術や学問にも通じていることをも意味しているそうだ。
この六度、すなわち、大乗仏教における六種の修行は、六波羅蜜(ろくはらみつ)といわれ、これは菩薩が涅槃に至るための以下の六つの徳目をいう。
・布施 (ふせ)
・持戒・忍辱 (にんにく)
・精進 (しょうじん)
・禅定 (ぜんじょう)
・智慧
この最後の智慧は、完全な徳の般若波羅蜜とされ、他の 5 つのよりどころとなるもの。
しかし、何だか、やたら難しいですね。
おそらく、仏教を知らない人には、こうしたいかめしい、難しそうな表現はどうなんですかねえ・・・。
悟りを得て、神様(仏様)の光が流れてくることをそのままあらわせる、言葉も態度も何もかも。
そして、そのすべてのものが、人のためにもなり、自分のためにもなる。
調和を旨として、すべてに安寧(あんねい)をもたらす。
それに至るまでの過程と内容を、かなりこと細かく、難しい話にしているように感じます。
仏教は、特に、大乗仏教は、こうした知識的で、分析的な側面があるから、知識がある人や理屈にこだわる人は好むんですかね。
よくわかりませんけど。
失礼致しました。