おぶなより

世界平和の祈りに寄せて

556_仏言葉ー088 ー 悟りと英知

第 6 章 心が晴れるためには

88.感情よりも英知

実践すれば、叡智が生まれ
実践しなければ、叡智は消える。
(苦しみの)生起と消滅の
二つの過程を知り
叡智が生まれるように
自らを修養せよ。

(ダンマパダ)
(二八二) (第20章 道 より)

佐々木さんは、上記の今枝さんの訳した叡智を英知と表記しているので、以下は英知で統一する(意味は、下記の中村さんの知慧も含めて「深くすぐれた知恵。高い知性」で同じだから)。

また、
上記の訳をされた今枝さんは、
実践すれば英知が生まれる、
と表現しているが、
佐々木さんは、
心を制御すれば英知が生まれる、
と訳している。

中村さんの訳は、
以下のようになっている(改変あり)。

実に心が統一されたならば、
豊かな知慧が生じる。
心が統一されないならば、
豊かな知慧が滅びる。
生じることと滅びることとの
この二種の道を知って、
豊かな知慧が生じるように
自己を整えよ。

佐々木さんは、
感情を平穏に保つことが心の制御で、
こうすることで物事を正しく客観的に見るための洞察力がつく、
とお考えのようだ。

以上からすると、
感情を波立たせない、心の平静や平穏、さらに言えば、
安穏と、
物事を正しく客観的にみるための洞察力である英知は、
表裏一体、密接不可分であり、
この状態を獲得するために、
修行、
あるいは、
これに準じる修養に努め、
心を耕して平らにすることで、
最終的には涅槃に入る道に到着するための、
正しい道に向かって歩んで行くことが、
人生にとっては大事なことなんだよ、
意義のあることなんだよ、
と言っている経文だと思います。

少なくとも、
その場、その場での、
場当たり的に生じる、
感情の起伏のおもむくままに行動したり、
感情を高揚させたり、
感情を爆発させるようなことでは、
落ち着いて正しい判断を下すことができなくなるし、
ここほどまでには感情を揺さぶらない、
中庸の状態でも、
(悟れていない普通の)人間の感情は
不安定です。

従って、
まずは心を落ち着かせて、
さらには、
感情の起伏がないように、
整えていくこと、
これが正しい判断を下すためには、
必要になると考えられるので、
やはり、
上記経文の通りに、
修行をしたり、それなりの修養が
必要になる、
と思います。

ただ、次の経文( 次回の経文。ダンマパダ(二八三) )の文言からすると、
今回の経文も修行者(修行僧)に向けてのものだと思われるので、
これは修行者の心構えを説いた経文である可能性が高い、
と考えられます。

在家の場合は、
ここまで突き詰める(理想を実現する)のは難しいので、
こうした内容を参考に修養に励めばよい、
ということだと思います。

しかし。

中村さんの訳にあった
心が統一されることを、
悟りを得る、ととらえると、
またさらなる話(?)になる、
と考えます。

というのも、
悟りを得れば、
神様(仏様)そのままの、
神界から流れてくる神様の知恵、
誰のためにもなる、
誰をも損ねることのない、
調和を旨とする素晴らしい知恵を
この世においてあらわせることになる。

つまり、
悟りを得れば、
この肉体世界であるこの世にまで、
神様(仏様、み仏)そのままの、
知恵を降ろして、
同様の素晴らしい行いも
あらわせることになる。

今枝さんの訳のように、
(この世の苦と思われる)苦しみの、
生起と消滅の、
訳文の文字から受け取る、
表面的な意味合いにはとらえずに、

中村さんの訳の中の、
心の統一=悟り、
豊かな知恵=神界の知恵、
としてとらえると、

この経文は、
一般の在家の人向けに、
心構えを示すというよりも、

むしろ、
修行者(修行僧)に対して、
修行に励んで悟りを開いて、
神様(仏様)の素晴らしい知恵と行いを、
この世において、
あらわせるようにしなさい、
と言っているように思われます。

それがひいてはみんなのため、
みんなの幸せのためになるのだから。

お釈迦さんが悟りを開いた後に、
たくさんの人達を導いて、
救っていったように。