おぶなより

世界平和の祈りに寄せて

278_原仏18ー7

前回 ( 277_原仏18ー6 - おぶなより ) の続きです。

Ⅱ 人生の指針 の
第二部 後世における発展 の
第七章 ギリシャ思想との対決 ー 「ミリンダ王の問い」 です。

なお、便宜上、本でなされている内容及び解説を (A) として、私の文を (B) と記します(段落分けなどの改変あり)。
また、内容は本の小見出しに従って、見ていく形にします。

二 ナーガセーナとの対話

ー 実体の否定 ー

(A) (一部、改変・省略・訂正あり。以下、すべて同様)前回 ( 277_原仏18ー6 - おぶなより ) 取り上げた車のたとえは、この本(ミリンダ王の問いのこと)の中では非常に有名なものです。

ナーガセーナ長老とミリンダ王の対談の最初にあるので、余計に重要な意味を持っていると思いますが、同時に仏教思想の理解のためにも重要なものです。

先のような説き方をのちの教義の学問では析空観(しゃっくうがん)といいますが、つまり分析によって空なることを知るというのです。

我々の個人存在はここにあり、これに色々な部分があると考えられる。その部分部分に分けてみて、そしてどこにも個人としての実体はない、あるいは霊魂というものはないということから、個人存在の空を説く訳です。

そこで、世の人々は、我と呼ばれる実体にとらわれている。けれども、そうしたものがある訳ではないといって、客観的に見える我々の存在の一部分にとらわれることをなくさせる。

つまり、我執をなくさせるというのがその趣旨なのです。そして、我執をなくすためのたとえですから、自己がないとは言わず、本来の自己はそうした(身体の)部分部分には認められない。

けれども、人間が人間としての理(ことわり)、理法に従って実践する(生きていく)ことに本当の自己がある。

これは、他の方面の教えとして説かれています。だから、その自己は霊魂のようなフワフワしているものでもなく、実体もないというのです。そうではなくて、人間が人間として(理法に従って)生きるところに本当の自己が存在する。

それは決して物体みたいなものではないというのです。それが背後に秘められている趣旨なのです。そこに導くために、まず非常に印象的な(??)このたとえを述べている訳です。

ただ、この説明だけで、問題が十分に解決できたとは言えないようです(そりゃそうでしょうよ)。

もしも、輪廻(転生)の主体を何か実体のように考えると、無我の輪廻は説明しにくくなるでしょう(そらそうでしょうよ)。

そこで何か霊魂の代用品になるものを教義学者は色々と考え、後には非常に複雑な論争がなされるようになるのです(さもありなん、ですな)。

そこで、後代には仏教哲学が展開されさることになりました(仕方ありませんね)。

ただ、霊魂に関する論議が仏教にとって必要となる本質的なものであったのかというと、私(中村さんのこと)としては、そうは思いません。むしろ、実践的な要請(何ですかね?これ)が先にあったと思うのです。人間はなぜ迷っているのか、これはやはり、我執があるからです。なぜ我執にとらわれるかというと、何ものかが絶対のものと言いますか、あるいは不変ななもので、恒久的なものだと思っているから、それを大事にして争いも起きる訳です。その我執を離れさせる、そしてもっと高いところ(何のことですか?これ?)へ目を向けさせる、そこが出発点(何の出発点ですか?)だと思うのです。

若い人は、合理的に考えますから(若い人に限りませんよ、これは)、実体を想定しなければ説明がつかないという議論もあるようで(もっともな話じゃないですか?)、それも確かに一つの問題だと思いますが(大問題ですよ)、しかし、一体実体という概念は何かというと、それは常に変化する作用とか、現象とか、運動とか、そういうものに対立した概念なのです(?)。

従って、それは感覚の世界においてのみ成立するものです。ところが、感覚を超えた世界にそれを導き入れることに論理的な誤解がある(?)。

つまり、適用範囲を逸脱している訳です(??)。ところが、世にいわゆる合理主義者というのは、その合理主義の限界というものを知らないということが言えるのではないでしょうか(???)。

(B)

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追記: 2024/04/21 23:16
〜訂正内容〜

本文を加筆・訂正しました。