前回 ( 275_原仏18ー4 - おぶなより ) の続きです。
Ⅱ 人生の指針 の
第二部 後世における発展 の
第七章 ギリシャ思想との対決 ー 「ミリンダ王の問い」 です。
なお、便宜上、本でなされている内容及び解説を (A) として、私の文を (B) と記します(段落分けなどの改変あり)。
また、内容は本の小見出しに従って、見ていく形にします。
二 ナーガセーナとの対話
ー 名前の問い ー
(A) (一部、改変・省略・訂正あり。以下、すべて同様)この仏典の「前世物語」のようなものが、はじめに含まれているのですが、実際の対談はミリンダ王がナーガセーナ長老を訪ねていって、議論を開始するところから始まります。
(B) なし。
続きです。
時に、ミリンダ王は尊者ナーガセーナのいる所に近づいて行った。
近づいて、
尊者ナーガセーナに会釈(えしゃく)し、
親愛にみちた礼儀正しい言葉を交わして
一方に坐(すわ)った。
尊者ナーガセーナもまた答礼して、
ミリンダ王の心を喜ばせた。
そこで、ミリンダ王は尊者ナーガセーナにこう言った。
続きです。
(A) インドやスリランカの古来の礼法としては、宗教者が非常に尊ばれているので、たとえ国王といえども宗教家を訪ねて行き、礼儀正しい挨拶をしてから会話を始めるのが通例でした。
ミリンダ王はギリシャ人ですが、インドの礼法に従って、自ら出向いていって恭(うやうや)しく挨拶し対談を始めたという訳です。これに対して、出家修行者であるナーガセーナも同じように答礼をしたという次第です。
(B) なし。
続きです。
「いかにして、
あなたは尊師として(世に)知られているのですか?
尊者よ、あなたはなんという名なのですか? 」
「大王よ、わたくしはナーガセーナとして知られています。
大王よ、同朋である修行者たちはわたくしをナーガセーナと呼んでいます。
また父母はナーガセーナとか、
スーラセーナとか、
ヴィーラセーナとか、
或いはシーハセーナとか
いう名をつけています。
しかしながら大王よ、
この「ナーガセーナ」というのは、実は名称・呼称・仮名・通称・名前のみにすぎないのです。
そこに人格的個体は認められないのであります。」
続きです。
(A) 一人の個人というものが、実体として永久に存在するものではないということ、個人存在というものは常に移り変わってゆくものである。
日本人の表現なら「無常なるものである」、これが仏教説です。だから実体としての人格的個体は認められない、そうはっきりと断言したのです。
(B) なし。
続きです。
「五百人のヨーナカ人(ギリシャ人)諸君と
八万の比丘(びく)はわが言を聞いてくれ。
このナーガセーナはこう言ったぞ、
「ここに人格的個体は認められない」
と。それを信じ得るだろうか?」
続きです。
(A) 五百人というのは、ある程度人数が多いことをあらわす呼称です。
また、八万というのは、非常に多い数をいうのです。ギリシャの哲学では、魂を大体認めます。それに基づいて個体があると考えているので、ナーガセーナの言うことはとんでもないことだという訳です。
インドでは、仏教以外にも色々な哲学学派、あるいは、宗教体系があり、それらはみな霊魂という実体があり、それがわれわれの中心にあり支配して行動を起こす、と説いていたのです。
ところが、仏教では、そのような形而上学的な前提は取り除いて、現象に即して考える。そうすると、我々が生きて働いているのも、結局は色々な原因と副次的な条件、これを因縁といいますが、この因と縁が集まって、我々を生かし、活動させている。だから、何も万能で絶対的な霊魂とか神とか、そういうものを考える必要がないという立場なのです。それがこの対話の中にはっきり出ていると思うのです。
仏教では霊魂を、肯定も否定もしません。ただ、世間にそういう信仰があるとして、それを認めるという立場です。
(B) なし。
続きです。
ミリンダ王は、それで尊者ナーガセーナにこう質問した。
(中間略)
「大王よ、
「同朋である修行者たちはわたくしをナーガセーナと呼んでいます」
とあなたはいいました。
その場合、「ナーガセーナ」と呼ばれるところのものは、いったい何ものですか?
尊者ナーガセーナよ、髪がナーガセーナなのですか?」
「大王よ、そうではありません。」
「身毛がナーガセーナなのですか?」
「大王よ、そうではありません。」
「爪がナーガセーナなのですか?」
「大王よ、そうではありません。」
(以下身体の各部分について同様の質問・返答が繰り返される。すなわち、)
「歯・皮膚・肉・筋・骨・骨髄・腎臓・心臓・肝臓・肋膜(ろくまく)・脾臓(ひぞう)・肺臓・腸・腸間膜・胃・糞・胆汁・痰(たん)・膿・血・汗・脂肪・涙・膏・唾・はなじる・関節滑液・尿・頭脳など、(これらのいずれか一つ)がナーガセーナなのですか?」
「大王よ、そうではありません。」
続きです。
(A) 当時、すでにインド医学はある程度進歩していて、解剖も行われていました。当時のインド医学では解剖を禁止してはいませんでしたから、死体を解剖してこういう臓器があることは知られていました。そのどれ(どの部分)も「ナーガセーナではない」というのです。
今度は少し哲学的な言葉を使っています。
(B) なし。
続きです。
「尊者よ、(物質的な)かたちがナーガセーナなのですか?」
「大王よ、そうではありません。」
「感受作用がナーガセーナなのですか?」
「表象作用がナーガセーナなのですか?」
「大王よ、そうではありません。」
「形成作用がナーガセーナなのですか?」
「大王よ、そうではありません。」
「識別作用がナーガセーナなのですか?」
「大王よ、そうではありません。」
続きです。
(A) ここの五つ、物質的なかたち・感受作用・表象作用・形成作用・識別作用を、漢訳仏典では、五蘊(ごうん)といいます。
つまり、我々の個人存在を構成している要素ですが、これを現代的にわかりやすく訳してみました。
「尊者よ、しからば、かたち・感受作用・表象作用・形成作用・識別作用(の合したもの)がナーガセーナなのですか?」
「大王よ、そうではありません。」
「尊者よ、しからば、かたち・感受作用・表象作用・形成作用・識別作用の外に、ナーガセーナがあるのですか?」
「大王よ、そうではありません。」
「尊者よ、わたくしはあなたに幾度も問うてみたのに、ナーガセーナを見出だし得ない。
尊者よ、ナーガセーナとは実は言葉のことにすぎないのですか?
尊者よ、あなたは、「ナーガセーナは存在しない」といって、真実ならざる虚言を語ったのです。」
そこで、尊者ナーガセーナは、ミリンダ王にこう(反問して)言った、
「大王よ、あなたはクシャトリヤの華奢(きゃしゃ)な(生まれ)であり、はなはだ贅沢に育っておられる。
大王よ、あなたが真昼どき暑い地面ややけた砂地の上を、そしてごろごろした砂礫(されき)を踏みつけて歩いて来たとすれば、足は痛むことでしょう。
また、身体は疲労し心は乱れ、身体の苦痛感が生じるでしょう。
一体あなたは、歩いてやって来たのですか、それとも乗り物ですか?」
「尊者よ、わたくしは歩いてやって来たのではありません。わたくしは車やって来たのです。」
(A) 日本でも地面を裸足(はだし)で歩くと、歩きつけない人は痛みます。
ましてインドでは、昼間は猛烈に太陽が照りつけるので、痛いだけでなく暑いのです。
暑さにも耐えられない。ところが、修行している修行者は、裸足で歩くのには慣れているので、足の裏が暑くなって、歩いてもそれほど響きません。ところが華奢な育てられ方をした人は、そうではなく、身体の苦痛感が生じるであろう、というのです。だから、修行者のように歩いて来た訳ではないでしょう、というのです。
(B)なし。
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追記: 2024/04/21 23:01
〜訂正内容〜
本文を加筆・訂正しました。