おぶなより

世界平和の祈りに寄せて

279_原仏18ー8

前回 ( 278_原仏18ー7 - おぶなより ) の続きです。

Ⅱ 人生の指針 の
第二部 後世における発展 の
第七章 ギリシャ思想との対決 ー 「ミリンダ王の問い」 です。

なお、便宜上、本でなされている内容及び解説を (A) として、私の文を (B) と記します(段落分けなどの改変あり)。
また、内容は本の小見出しに従って、見ていく形にします。

二 ナーガセーナとの対話

ー 仏教における「無我」  ー

(A) (一部、改変・省略・訂正あり。以下、すべて同様)ところで、先の対談にあるような考え方によって「無我説」を理解することは、私達の先祖の間でも行われており、昔の歌にもあります。

引き寄せて結べば柴の庵となり解くればもとの野原なりけり。

色々な木片や草などを集めてきて結ぶと柴の庵となる。

そこに我々は住んでいる。

我々の身体もそのようなものである。

ところが解けてしまうとまたもとの野原である。

われわれの身体も命がなくなると、また、もとにかえる訳です。

すなわち、ここに「無我説」の根拠を認めているのです。

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春雨サラダ様すみませんね。

実は、私はこの縁起や無我には、めちゃくちゃ否定的な考えを持っていまして、それをまともに書くと、相当ボロクソな罵詈雑言みたいなものになる可能性があります。

既存の権威ある学説の否定みたいなものですから、かなり気が引けるんですよね。

なので、どこまで書いたらいいのか、回を改めて、まとめたものとして書くべきか、いまだに迷って決められずにいます。

そこで、書くところを (B) としてとりあえず空欄にしておき、中村さんの話だけを、読みにくくまどろっこしい表現(すみませんね。私のような下の者からみると大学者さんの文体はなじみにくいんです。特に平易を旨としたい私には)を、改竄、大幅に省略、あるいは大意のみとして、書き換えたりしています。

あまり書きたくないんですが、申し訳ありませんので、本の続きをやっていきます。

失礼致しました。

特に、下記の無我の部分は嫌なんですよね。

でも、個人的な好き嫌いで省いてしまうのは、やはり不適切なので、とりあえず、書きます。

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(A)「無我説」というのは、「実体としての我が無い」という意味で、自己を否定したのではありません。

自己とは言葉で捉えることができず、5 つの構成要素の外にあるものです。

ただ、我々が人間の理法、理(ことわり)に従って実践をするその中に、本当の自己が現れることをこれまで見てきたように、原始仏典では説いていますし、さらに大乗仏教になると、この点を強調するのです。

だから、仏教は単なる虚無論ではなく、実体としての「我」がない(これはいつかは消えてなくなるものですから)、その奥にある真実の自己というものは、人間の理、法を実現するものとして不滅の意義を持つ。

これが仏教の教えです。

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①追記: 2021/02/21 16:11
②追記: 2024/04/24 11:22
〜訂正内容〜

上記複数回にわたり、本文を加筆・訂正しました。