前回 ( 276_原仏18ー5 - おぶなより ) の続きです。
Ⅱ 人生の指針 の
第二部 後世における発展 の
第七章 ギリシャ思想との対決 ー 「ミリンダ王の問い」 です。
なお、便宜上、本でなされている内容及び解説を (A) として、私の文を (B) と記します(段落分けなどの改変あり)。
また、内容は本の小見出しに従って、見ていく形にします。
二 ナーガセーナとの対話
ー 車のたとえ ー
(A) (一部、改変・省略・訂正あり。以下、すべて同様)ここで車に関する部分の一つ一つを取り上げています。
(B)
続きです。
「大王よ、もしもあなたが車でやってきたのであるなら、
(何が)車であるかをわたくしに告げてください。
大王よ、轅(ながえ)が車なのですか?」
「尊者よ、そうではありません。」
「軸が車なのですか?」
「尊者よ、そうではありません。」
「輪が車なのですか?」
「尊者よ、そうではありません。」
「車体が車なのですか?」
「尊者よ、そうではありません。」
「車棒が車なのですか?」
「尊者よ、そうではありません。」
「軛(くびき)が車なのですか?」
「尊者よ、そうではありません。」
「輻(や)が車なのですか?」
「尊者よ、そうではありません。」
「鞭(むち)が車なのですか?」
「尊者よ、そうではありません。」
「しからば、大王よ、轅・軸・輪・車体・車棒・軛・輻・鞭(の合したもの)が車なのですか?」
「尊者よ、そうではありません。」
「しからば、大王よ、轅・軸・輪・車体・車棒・軛・輻・鞭の外に車があるのですか?」
「尊者よ、そうではありません。」
「大王よ、わたくしはあなたに幾度も問うてみましたが、車を見出し得ませんでした。
大王よ、車とは言葉にすぎないのでしょうか?
しからば、そこに存する車は何ものなのですか?
大王よ、あなたは「車は存在しない」といって、真実ならざる虚言を語ったのです。」
(中間略)
続きです。
(A)こう言って、ナーガセーナはミリンダ王をやり込めた訳です。
(B)
続きです。
そこで、ミリンダ王は尊者ナーガセーナにこう言った、
「尊者ナーガセーナよ、わたくしは虚言を語っているのではありません。
轅に縁(よ)って、軸に縁って、輪に縁って、車体に縁って、車棒に縁って、「車」という名称・呼称・仮名・通称・名前が起こるのです。」
続きです。
(A) つまり、部分部分がバラバラであったり、ただ積み重なっているだけでは車にはならないのです。
それぞれ適当な位置を占めて相互に連結することにより、そこで仮に車という名前が出来上がるのです。
縁って起こるということです。
これを仏教では「縁起」といいます。
すなわち、色々なものが寄り集まって個物ができるという訳なのです。
そこで、ナーガセーナがいいます。
(B)
続きです。
「大王よ、あなたは車を正しく理解されました。
大王よ、それと同様に、わたくしにとっても、髪に縁って、身毛に縁って・・・乃至(ないし)・・・脳に縁って、かたちに縁って、感受作用に縁って、表象作用に縁って、形成作用に縁って、識別作用に縁って、「ナーガセーナ」という名称・呼称・仮名・通称・単なる名が起こるのであります。
しかしながら勝義においては、ここに人格的個体は存在しないのです。
大王よ、ヴァジラー比丘尼(びくに)が、尊き師(ブッダ)の面前でこの(詩句)をとなえました。」
続きです。
(A)体の部分や、体の中で働いている色々な精神的作用によって、「ナーガセーナ」個人という仮の名前がつけられている。
けれども、究極的な立場かみると、人格的な個体は存在しない、というのです。
ここで、ヴァジラーという尼さんの詠んだ詩の文句を引用しています。女性の尼さん(?)は、すでに仏教の最初期の時代から、男性に伍(ご)して重要な位置を占めていました。ここに見られるような哲学的な論議をする人もいたのです。
その詩の文句ですが、
「たとえば、部分の集まりによって
車という言葉があるように、
そのように(五つの)構成要素の存在とするとき、
生けるものという呼称がある」と。
色々な部分が集まって車というものができる。それと同様に、我々の存在を構成する五つの要素(五蘊)が集まって、生きている存在と名付けられるものがあります。これを漢訳仏典では「衆生(しゅじょう)」と呼ぶこともあります。あるいは、唐代以後の漢訳では「友情」と訳し、友情の情は、情ではなく、むしろ「心の働き」という意味で、「人の働きのあるもの」、ですから生きもののことをいう訳で、人間のみならず、高等な動物はそこに含めますが、そうしたものは、みな五つの働きが集まっているものだ、というのです。
それを聞いて、ミリンダ王がいいました。
(B)
続きです。
「すばらしい、尊者ナーガセーナよ。
立派です。尊者ナーガセーナよ。
(わたくしの)質問はいとも見事に解答されました。
もしもブッダがご在世であるなら、賞賛のことばを与えられるでしょう。
もっともです。
もっともなことです。
ナーガセーナよ、(わたくしの)質問はいとも見事に解答されました。」
(以上、第 一 篇 第 一 章・第 一)
続きです。
(A)この対談を見ると、ギリシャ人の王は、いつもブッダと呼んでいます。
ところが、長老の方は、世尊(尊き師)という言葉を使っています。
ここに同じく釈尊に言及するにしても、若干の立場の違いがあるのです。
(B)
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追記: 2024/04/21 23:10
〜訂正内容〜
本文を加筆・訂正しました。