前回 ( 274_原仏18ー3 - おぶなより ) の続きです。
Ⅱ 人生の指針 の
第二部 後世における発展 の
第七章 ギリシャ思想との対決 ー 「ミリンダ王の問い」 です。
なお、便宜上、本でなされている内容及び解説を (A) として、私の文を (B) と記します(段落分けなどの改変あり)。
また、内容は本の小見出しに従って、見ていく形にします。
二 ナーガセーナとの対話
ー 霊魂観 ー
(A) (一部、改変・省略・訂正あり。以下、すべて同様)ミリンダ王とナーガセーナとの対話について見ていきましょう。
本題に入る前に、最初はいきなりミリンダ王が出てこないで、王に従ってきた廷臣、アナンタカーヤとナーガセーナが対話する場面が出てきます。これも考えようによっては、なかなか面白い対話だと思います。
続きです。
「尊者ナーガセーナよ。
私が「ナーガセーナ」と言ったとき、
そこにおける「ナーガセーナ」とは何なのですか」
「では、そこにおける「ナーガセーナ」とは何なのだとあなたは考えますか」
「身体の内部にあって、風(=呼吸)として出入りする霊魂を私はナーガセーナであると思います」
「しからば、もしもこの風が外に出たまま入ってこないか、または内に入ったまま外に出て行かないならば、いったいその人は生きていることができるでしょうか」
「生きていることはできません」
「しからば、人が法螺貝(ほらがい)を吹く場合に、風が彼らのもとにふたたび入って来るでしょうか」
「入って来ません」
「また人が竹を吹く場合に、風が彼らのもとにふたたび入って来るでしょうか」
「入っては来ません」
「しからば、何ゆえに彼らは死なないのですか」
「さあ、尊者よ、このわけを話してください。」
「風は霊魂ではありません。これらの出入りする風は、身体のなかにひそむ力なのです」
(第 一 篇・第 一 章・第 四)
続きです。
(A)ギリシャ人の霊魂観から見ると、霊魂は出入りする空気だが、インドの仏教者は、それを認めないのです。
ナーガセーナの対話の相手は、パーリ文ではアナンタカーヤという名前になっていますが、学者の推定によるとこれは、アンティオコスだったであろうと言います。
彼はミリンダ王についてきた宮廷の地位の高い廷臣、官僚です。ですから、ギリシャ的な見解を持っています。
その議論は何か非常にギリシャ的なような気がするのです。それをナーガセーナ長老は衝(つ)いているのです。
「ミリンダ王の問い」の中では、議論は総じて多岐にわたっていますが、大体、インド人なら当たり前だと思っていても、ギリシャ人の立場からは、どうも納得がいかないことを、片っ端から取り上げて質問をするのです。
主な論点としては、ここに出てくる霊魂の問題、それから霊魂に付随する輪廻の観念です。つまり生まれ変わりです。
ギリシャ人は、彼ら独特の霊魂観を持っており、その立場から質問するのです。
仏教の無我説、それから、無我説の立場に立ちながら、しかも人間が迷って輪廻するというその理(ことわり)が、ギリシャ人にはどうもわかりにくかったらしい。それがまず出発点になっています。
(B)なし。
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・廷臣~ていしん~朝廷に仕え、官に任じられた役人。
・しからば~そうであるなら。それなら。
(用例)努力せよ。しからば道は開かれる。
(参考)・しからずんば~そうでなければ。さもなければ。
・しかるに~それなのに。それにもかかわらず。
(用例)誠意を尽くした。しかるに聞き入れない。
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①追記: 2021/02/16 02:07
②追記: 2024/04/21 18:38
〜訂正内容〜
上記複数回にわたり、本文を加筆・訂正しました。