おぶなより

世界平和の祈りに寄せて

275_原仏18ー4

前回 ( 274_原仏18ー3 - おぶなより ) の続きです。

Ⅱ 人生の指針 の
第二部 後世における発展 の
第七章 ギリシャ思想との対決 ー 「ミリンダ王の問い」 です。

なお、便宜上、本でなされている内容及び解説を (A) として、私の文を (B) と記します(段落分けなどの改変あり)。
また、内容は本の小見出しに従って、見ていく形にします。

二 ナーガセーナとの対話

ー 霊魂観 ー

(A) (一部、改変・省略・訂正あり。以下、すべて同様)ミリンダ王とナーガセーナとの対話について見ていきましょう。

本題に入る前に、最初はいきなりミリンダ王が出てこないで、王に従ってきた廷臣、アナンタカーヤとナーガセーナが対話する場面が出てきます。これも考えようによっては、なかなか面白い対話だと思います。

続きです。

「尊者ナーガセーナよ。
私が「ナーガセーナ」と言ったとき、
そこにおける「ナーガセーナ」とは何なのですか」

「では、そこにおける「ナーガセーナ」とは何なのだとあなたは考えますか」

「身体の内部にあって、風(=呼吸)として出入りする霊魂を私はナーガセーナであると思います」

「しからば、もしもこの風が外に出たまま入ってこないか、または内に入ったまま外に出て行かないならば、いったいその人は生きていることができるでしょうか」

「生きていることはできません」

「しからば、人が法螺貝(ほらがい)を吹く場合に、風が彼らのもとにふたたび入って来るでしょうか」

「入って来ません」

「また人が竹を吹く場合に、風が彼らのもとにふたたび入って来るでしょうか」

「入っては来ません」

「しからば、何ゆえに彼らは死なないのですか」

「さあ、尊者よ、このわけを話してください。」

「風は霊魂ではありません。これらの出入りする風は、身体のなかにひそむ力なのです」

(第 一 篇・第 一 章・第 四)

続きです。

(A)ギリシャ人の霊魂観から見ると、霊魂は出入りする空気だが、インドの仏教者は、それを認めないのです。

ナーガセーナの対話の相手は、パーリ文ではアナンタカーヤという名前になっていますが、学者の推定によるとこれは、アンティオコスだったであろうと言います。

彼はミリンダ王についてきた宮廷の地位の高い廷臣、官僚です。ですから、ギリシャ的な見解を持っています。

その議論は何か非常にギリシャ的なような気がするのです。それをナーガセーナ長老は衝(つ)いているのです。

ミリンダ王の問い」の中では、議論は総じて多岐にわたっていますが、大体、インド人なら当たり前だと思っていても、ギリシャ人の立場からは、どうも納得がいかないことを、片っ端から取り上げて質問をするのです。

主な論点としては、ここに出てくる霊魂の問題、それから霊魂に付随する輪廻の観念です。つまり生まれ変わりです。

ギリシャ人は、彼ら独特の霊魂観を持っており、その立場から質問するのです。

仏教の無我説、それから、無我説の立場に立ちながら、しかも人間が迷って輪廻するというその理(ことわり)が、ギリシャ人にはどうもわかりにくかったらしい。それがまず出発点になっています。

(B)なし。

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・廷臣~ていしん~朝廷に仕え、官に任じられた役人。

・しからば~そうであるなら。それなら。
(用例)努力せよ。しからば道は開かれる。
(参考)・しからずんば~そうでなければ。さもなければ。
・しかるに~それなのに。それにもかかわらず。
(用例)誠意を尽くした。しかるに聞き入れない。

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①追記: 2021/02/16 02:07
②追記: 2024/04/21 18:38
〜訂正内容〜

上記複数回にわたり、本文を加筆・訂正しました。