おぶなより

世界平和の祈りに寄せて

376_法悟28-5-1

第1週 心の法則を知る

5. すべての生命は病んでいる

病気の世の中で、
健(すこ)やかに楽しく生きよう。
病気に悩む人々の中で、
健康な人間として生きてゆこう。

(一九八) (第15章 幸せ より)

あせって悩む世の中で、
落ち着きを保って楽しく生きよう。
あせって悩む人々の中で、
落ち着いた人間として生きてゆこう。

(一九九) (第15章 幸せ より)

また、勝手流ですが、まとめてみます。

まずは、前段の偈(詩。ここでは、経文)(一九八)について。

仏教で病気という場合、肉体的なものは気にせず、精神的な病のことを言う。( S さんの言うには)あらゆる生命は精神の重病を患(わずら)い、末期状態で倒れているそうだ。

末期状態で倒れ、健康はどこにもない。自由に考え、独立する暇も余裕もない。

過去も現在も未来も、この世間に転生してしまう生命は、仏教的に観(み)れば、もう立ち上がれないほどの病気で倒れている状態だと言う。輪廻(転生)の中にいる生命は、それくらい心が病んでいると( S さんは)言うのだ。

精神的な病気とは具体的に何を指すのか?

仏教でいうの貧瞋癡(とんじんち)の 3 つだ。これらの感情により人間の精神状態は支配され、それを超えて物事を考えて行動することができずにいる(?)。

貧瞋癡は、欲と怒りと無知の 3 つである。欲に溺れると欲の奴隷となって翻弄(ほんろう)される。怒りは、敵対者を潰そうとする病気だ。無知は、物事に的確な判断が下せずに迷いまくることだ。

例えば、S さんが仏教徒の立場から「欲はいけない」と言っても「そんなことを言われても困る」とすぐに反論され、「怒ってはいけない」諭(さと)しても「悪いヤツがいるのに、怒らないで調子に乗ったらどうするんだ」ともっともらしい反論が飛んでくるらしい。

これらのことからわかることは、世の中には、欲を満たす、怒りをぶつけるより道がなく、他の考えが出てこないということだ。

こうした、貧瞋癡に引きずりまわされる人々を仏教では、「精神の重病で倒れて寝込んでいる人々」と言うのである。

ならば、私達はどうすべきなのか?

頑張って立ち直ろう、(心を)健康的にしよう、というのが正しい対応ではないだろうか。「一緒に死にましょう」では、答えにならないからだ。

例えば、あなたがある村を通りかかった時に、すべての人々が伝染病にかかって瀕死の状態にあるとする。

そこで、あなたがとるべき正しい対応は、「みんな死ぬのなら、私も一緒に死にましょう」ではなく、「自分は伝染病にかからないようにしなければ・・・」と気をつけることだ。

あるいは、洪水で川沿いの村が次々にながされているならば、「どうせ全部流されるのだから、あなたも川に飛び込みなさい。それが賢い選択だ」という人はいないだろう。

「流されないように注意して離れて下さい」というのが正しい対応(のはず)だ。

精神的に弱く独立精神がない人々(ひどい)は、社会にも歴史にも何ら貢献できない、一つの生き方に固執している。すでに「みんながやっていること」をやろうとするのだ。それでは社会はまったく発展しない(え?)。皆がせっせと同じことをして「はい、終了」では歴史に書くこともなくなる(?)。

それは、日本の社会に広く浸透している礼儀かもしれないが、「みんながやっていることをやる」のは、とんでもない腰抜けの考え方だ(ひどい)。

一般の社会でも、他人とは少々違ったことをする人こそが歴史に残るのだ(だから何なの?)。

だから、仏教徒の立場からすると、みんながやっていることではなく、「革命的に正しいこと」をする勇気をもって欲しいのだ。

自分がやろうとしていることが、賢者の認める正しい行為(?)ならば、何も心配する必要はない。

成功すれば素晴らしいし、もしも成功しなくても、正しい道を歩もうとした努力は称賛される。だから、一切の生命が精神的な病で倒れているが、自分は病気から立ち直って健康的に生きよう。輪廻(転生)という重病(?)から抜け出す道にチャレンジしてみよう、と明るく励むことだ。

次に後段の偈(経文)(一九九)だが、これは、「あせって悩む」生き方の無意味さを教えている。生き物を観察すると、みないつも忙しく動きまわっている。

人間は忙しいことに言い訳を用意するが、大層な理由はどこにもない(?)。

例えば、動物を観察してみよう。彼らは何と忙しいことか。絶えずせわしなく素早く動き、決して落ち着きがない。そして、その忙しいという気持ちは、かなりの苦しみであり、強烈なストレスになる。これは精神的な空白感である空(むな)しさを感じて生きていることを意味する。

虫も、魚も、鳥も、動物も、人間も、みんな忙しく動きまわって強烈なストレスを溜め込んでいるのだ。忙しいというと、良いことではないか、と思うかもしれないが、本当は精神的な焦りを忙しいという言葉で覆(おお)い隠しているだけなのである。

ブッダ(=お釈迦さんのこと)はニコッと笑って私達にこう問いかける。「あなた方はとても忙しいですね。では何か大事なことでもやっているのですか」。もちろん、私達は何もやっていません(?)。

それなのに、忙しいのはなぜか。

(肉体にまつわる)五欲を満たすために必死になっているからだ。五欲とは、
(1)見るものを探す
(2)聞くものを探す
(3)味わうものを探す
(4)嗅(か)ぐものを探す
(5)体に触れるものを探す
というだけで、それだけで忙しいのだ。

世の中には、必死で忙しく働き、膨大な財産を築く人達もいる。しかし、彼らが一生かかっても、その財産を使いきることはできない。

ライオンが力に任せて獲物の動物を何十頭と倒したところで、全部食べきる前に腐ってしまうだろう(?)。

人間が金儲けをすることも、これと同様なのだ。百年たっても、二百年たっても使いきれないほど財産を増やす人もいるが、忙しくて自分でお金を使う暇がないのだ。金儲けのために、ヨットを買っても乗る暇がないし、いくつもの別荘をもっているのに、そこでのんびりとくつろぐ暇もない。

食事を採る時でさえ、10 万円もする料理にポンと平気で代金を支払えるのに、食べる暇がないから、サンドイッチをかじりながら仕事をしているという具合だ。

だから、いくら、忙しい、忙しい、と言っても、結局は無知に沈んで終わるだけの話なのだ。この地球の土をあっちからこっちへ運んだようなものだ。

自分が死んだらすべてを手放して、土に戻らないといけない。膨大な財産を築いて何になるのか、と言えば何にもならないのだ。ただ、忙しいだけなのである。

そうやって限りなく忙しく生きて、極端に精神的なストレスを溜(た)めて、心の空白感を抱え込む。すべての生命はその空白感に悩まされて生きているのである。

ブッダは、「その中にあって、何の忙しさも感じないで、穏やかにいようではないか」と提案している。

食事をする時には、体を維持するために必要なものだけを食べれば気が楽だ。対して、グルメに生きようとすれば、忙しくて苦しくなるのだ。

目の機能は、命を守るのには必要だから、その程度に使えばいい。それが「美しいものを見なければ」となってしまうと、とたんに忙しくなるのだ。

耳も人との会話や危険の察知には必要だから、その程度に使えばいい。それが教養を身につけるために「美しい音楽を聴かねば」となって音楽の世界にのめり込んでしまうと、忙しくてキリがなくなってしまう。

五欲を探し求めることに、人々は必死だ。忙しい人生には一瞬たりとも休みがないのだ。それは無知な生き方なのである。

必死になって五欲を追い、探し求める必要はどこにもないのだ。このことを理解して、命を支えるために必要なものを、適当に揃(そろ)えて生きればいい。

五欲を追い求める忙しさから離れ、落ち着いて、清らかな心を育てようと励むならば(唐突ですね)、私達ははじめて「忙しい」という呪縛(じゅばく)から逃れることができるのだ。

とのこと。

次回、すこしばかり感想を書きたいと思います。

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・経文~きょうもん~仏教語~経典。またはその文章。

・翻弄~ほんろう~思うままにもてあそぶこと。
(用例)運命に翻弄される。荒波に翻弄される船。

固執~こしゅう→こしつ~かたく自説を主張して曲げないこと。
(用例)自分の立場に固執する。
(参考)こしつはこしゅうの慣用読み。

・呪縛~じゅばく~まじないをかけて動けなくすること。転じて、心理的に束縛すること。
(用例)呪縛から解放される。

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追記: 2024/04/28 22:18
〜訂正内容〜

本文を訂正しました。