おぶなより

世界平和の祈りに寄せて

470_仏言葉ー004 ー 貪らないこと

第 1 章 世間のルールになじめない

4.貪欲さという苦しみ

貪る人達の中にあって
私達は、貪らずに幸せに生きよう
貪る人達の中にあって
私達は貪らずに生きよう。

(一九九) (第15章 幸せ より)

佐々木さんによると、この(一九九)の経文は、(一九七)の経文と対句だとされている。

佐々木さんは、この(一九九)について一言、人間の欲望にはきりがないから、人間関係にもトラブルが絶えないので、だから貪らないようにせよ、といった感じで述べている。

なお、間にはさまれた(一九八)も、韻を踏んで同じような形になっているので、以下、改めて、その 3 つを記す。

怨みを抱く人達の中にあって
私達は、怨みを抱かず幸せに生きよう。
怨みを抱く人達の中にあって
私達は、怨みを抱かずに生きよう。
(一九七) (第15章 幸せ より)

悩める人達の中にあって
私達は、悩まず幸せに生きよう。
悩める人達の中にあって
私達は、悩まずに生きよう

(一九八) (第15章 幸せ より)

貪る人達の中にあって
私達は、貪らずに幸せに生きよう。
貪る人達の中にあって
私達は、貪らずに生きよう。

(一九九) (第15章 幸せ より)

このうちで、(一九九) については、中村さんによると、大いに楽しく生きよう、つまり、楽しい境地を教えてくれる言葉とされている。

また、S さんも、この 3 つに触れたものを書いたので、以下に引用しておく。

ただし、S さんの訳は、今枝さんの訳とは、ほんのちょっと趣が違うかもしれない。

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(一九七)について

308_法話50-4(Sさん関連。一部改変あり )

4 どんな極悪人でも立ち直る可能性がある

怨みを抱いている人々の中にあっても、
われわれは安穏に生きよう。
怨みをもっている人々の間にあっても、
われらは怨みなく安穏に過ごそう。

(一九七) (第15章 幸せ より)

殺人などの罪を犯した者に、私達は大きな怒りや憎しみを抱いて、厳しい処分は当然だと思います。人殺しは悪いことです。しかし、だからといって、犯人を死刑や極刑に処することが、その答えになるのでしょうか。「立ち直るために、何とかしてあげられないだろうか」という心を持つことが大切だと思うのです。

仏教ではどんな極悪人でも立ち直る可能性があると教えます。お釈迦様の弟子には、かつて千人もの生命を奪おうとしたアングリマーラがいます。次々と人を殺し、「あと一人を殺せば千人」というところで、お釈迦様に出会ったのです。そんな男でも出家して悟ることができました。

よく考えてみるならば、罪を犯した者だけが悪いのではありません。私達にもその責任の一端があるのではないでしょうか。

その男(アングリマーラのこと)は、殺人を犯すところまで孤立していたのでしょう。彼が怒りで凝り固まっている時、なぜ周囲の人が彼の気持ちを理解してあげられなかったのでしょうか。なぜ未然に殺人をやめさせることはできなかったのでしょうか。結果として、それができなかったということは、私達の社会も、同じように罪があるといえると言えるのではないでしょうか。

ましてや未成年が罪を犯したのなら、大人の社会にも責任があります。少年は、犯罪者であって、同時に被害者でもあります。何とか助けてあげなくてはいけないのです。

キリスト教の聖書にも、こんな話があります。

律法学習達が、イエスの前にある女を連れてやって来ました。それは姦通の現場で捕らえられた女でした。

彼らはイエスに「姦通した者は石で打ち殺せと、律法(神との契約によって、神から下された命令)にある。あなたはどう思うか」と詰め寄ります。

(それに対して)イエスは、こう言いました。「あなた達の中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」。

すると、一人また一人と立ち去って、その場に残った者は、イエスと罪を犯した女だけになりました。

そして、イエスは言います。「私はあなたを罰しない。帰りなさい。もう、罪を犯してはならない」と。

「あの人が悪い」「上司が悪い」「社会が悪い」「政府が悪い」と批判ばかりする人は、「自分だけは悪くない」と思っている人です。自分のことを省みずに、他人をを責める生き方をしているのです。

しかし、よく自分自身を観察してみれば、自分もまた批判する者(批判している対象者のこと)と同じようなレベルなのです。

となっています。

いくつかに分けて見ていきたいと思います。

①殺人は悪

前回(307_法話50-3)に大体書きましたけど、繰り返します。

殺人の対象は、肉体人間です。その肉体人間は、神様の分霊を本体としています。肉体人間は、それぞれに、この神様の分け命を与えられたからこそ生きています。

従って、私達肉体人間は神様の子供になる訳です。

神様の世界をこの地球さんの物質世界に映し出すために、それぞれに分かれて肉体人間に宿り、その肉体人間として生きていくための便宜上、本来ならなかった肉体人間としての自分だけを守る本能、いわゆる、自己保存の本能を付与されたために、数々の真善美に悖る、神様の分け命を宿す者、すなわち、神様としてはふさわしくない想いと行いを数えきれないほどの輪廻転生を通して、これまた、数えきれないほどの真善美に悖る想いと行い(以下、これを業想念とします)を積み重ねてきたのが、今の人類という訳です。

再三、書いてきた通り、この世も神様の世界の一部です。本来なら、真善美に悖るものは、あらゆることにおいてあってはならないし、神様の分け命を宿す肉体人間も、本来は神様の子供なのだから、業想念もしてはならないことになります。

従って、人間=肉体人間だと思い込むようになって、犯してきた業想念は、あるべからざるもの、あってはならないものとして、清算されなければならない定めにあるのです。

だから、人様を自分勝手に殴ったら殴り返され、恋人や夫婦間で身勝手に浮気をしたら浮気をやり返される。

ただし、その大半が輪廻転生という生まれ変わりを経て。

こうして、輪廻転生を通しながら、業想念を行っては、次の世以降に清算、という過程を数限りなく繰り返しながら、肉体を持ちながら、肉体人間でありながら、本体の神様の分け命の姿に近づくように、修行していく訳です。

神様の分け命を宿す、頂いているということは、肉体人間はその本質が、同じ命であり、兄弟姉妹である、となります。

従って、傷つけ合うこと、殺し合うことは、本来なら絶対にあってはならないことになります。

ただ、自己保存の本能のために、人間=肉体人間との思い込みが染み付き、数々に積み重ねてしまった業想念、中でも特に重く悪いものが、傷害や殺人といったきわめて悪い因縁として、あらわれてくる訳です。

という次第で、殺人は絶対悪となります。

このように考えてくると、もしも、輪廻転生の過程の途中で強姦や殺人という重罪を犯してしまったら、必ずその償いが輪廻転生を通して行われるという結論になります。

つまり、「肉体人間は、神様の分霊を本質とする以上、輪廻転生を通した業想念の償いからは逃れることができない」と考えられるためです。

ただし、良いもの(真善美に悖らないもの。神様のみ心に適(かな)う(合う)もの)ならば、何の問題にもならないしありがたいものだけれど、悪いもの(真善美に悖るもの。神様のみ心に適わない(合わない)もの=業想念)は、そのすべてがこの世であらわれてしまうと、大変なことになる。

おそらく、そのままでは、膨大な業想念の償いの現象があらわれてきて、肉体人間としては、苦しくてやっていかれない。

潰されてしまう。

そもそも、償いすらできなくなってしまう可能性が高い。

世の中も、天変地異だらけになってしまうかもしれない。

地球さんさえもどうなるかはわからない。

従って、そうならないように、その業想念のこの世での具現化の前に、守護の神霊さんが浄めて消して下さっている。

ただし、そのご判断の下(もと)に(裁量の範囲内で)。

これは、肉体をまといながらも神様の子供としてふさわしく磨きあげていく修行としては、避けることができない、避けてはならない、とお考えになられた償いは、浄めからは外されて、受けなければならない。

ゆえに、強姦や殺人などの償いは、絶対に避けては通れないものとして、受けなければならなくなると考えられます。

その殺人の償いが、現世内で、重罪として処断されるか、それとも、来世以降になるのかは、やはり、過去世からの因縁因果次第によると考えられます。

アングリマーラについては、中村さんの原始仏典のところに書いたので、ここでは省略させて頂きます。

②一人の罪は周囲も同罪か

これは、個々の場合、場合(ケースバイケース)によると思います。

つまり、因縁因果次第です。

③肉体人間は五十歩百歩

肉体人間は、神様の分霊を本質としています。

しかし、肉体をまとい、人間=肉体人間と思い込むようになって、数えきれないほどの業想念を積むことは、よほど過去世からの良き想いと行いの積み重ねがあって、霊性の高い人以外は、誰にでも何かしら業想念がある訳です。

肉体人間として、この世に生まれたということは、その人生を通して業想念の償いがあると考えられるんです。

基本はそのための修行として、この世に生まれてくる。

だから、大なり小なり、皆、五十歩百歩で、自分だけを正当化して、高みに立って人様を批判や非難ばかりできたものではない、と言えるんでしょうね。

神様の世界からすれば、肉体人間は、まだまだ、はるかにいたらない。

そういうことだと思います。

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(一九八) と (一九九) について

376_法悟28-5-1(Sさん関連)

第1週 心の法則を知る

5 すべての生命は病んでいる

病気の世の中で、
健(すこ)やかに楽しく生きよう。
病気に悩む人々の中で、
健康な人間として生きてゆこう。

(一九八) (第15章 幸せ より)

あせって悩む世の中で、
落ち着きを保って楽しく生きよう。
あせって悩む人々の中で、
落ち着いた人間として生きてゆこう。

(一九九) (第15章 幸せ より)

また、勝手流ですが、まとめてみます。

まずは、前段の偈(詩。ここでは、経文)(一九八)について。

仏教で病気という場合、肉体的なものは気にせず、精神的な病のことを言う。( S さんの言うには)あらゆる生命は精神の重病を患(わずら)い、末期状態で倒れているそうだ。

末期状態で倒れ、健康はどこにもない。自由に考え、独立する暇も余裕もない。

過去も現在も未来も、この世間に転生してしまう生命は、仏教的に観(み)れば、もう立ち上がれないほどの病気で倒れている状態だと言う。輪廻(転生)の中にいる生命は、それくらい心が病んでいると( S さんは)言うのだ。

精神的な病気とは具体的に何を指すのか?

仏教でいうの貧瞋癡(とんじんち)の 3 つだ。これらの感情により人間の精神状態は支配され、それを超えて物事を考えて行動することができずにいる(?)。

貧瞋癡は、欲と怒りと無知の 3 つである。欲に溺れると欲の奴隷となって翻弄(ほんろう)される。怒りは、敵対者を潰そうとする病気だ。無知は、物事に的確な判断が下せずに迷いまくることだ。

例えば、S さんが仏教徒の立場から「欲はいけない」と言っても「そんなことを言われても困る」とすぐに反論され、「怒ってはいけない」諭(さと)しても「悪いヤツがいるのに、怒らないで調子に乗ったらどうするんだ」ともっともらしい反論が飛んでくるらしい。

これらのことからわかることは、世の中には、欲を満たす、怒りをぶつけるより道がなく、他の考えが出てこないということだ。

こうした、貧瞋癡に引きずりまわされる人々を仏教では、「精神の重病で倒れて寝込んでいる人々」と言うのである。

ならば、私達はどうすべきなのか?

頑張って立ち直ろう、(心を)健康的にしよう、というのが正しい対応ではないだろうか。「一緒に死にましょう」では、答えにならないからだ。

例えば、あなたがある村を通りかかった時に、すべての人々が伝染病にかかって瀕死の状態にあるとする。

そこで、あなたがとるべき正しい対応は、「みんな死ぬのなら、私も一緒に死にましょう」ではなく、「自分は伝染病にかからないようにしなければ・・・」と気をつけることだ。

あるいは、洪水で川沿いの村が次々にながされているならば、「どうせ全部流されるのだから、あなたも川に飛び込みなさい。それが賢い選択だ」という人はいないだろう。

「流されないように注意して離れて下さい」というのが正しい対応(のはず)だ。

精神的に弱く独立精神がない人々(ひどい)は、社会にも歴史にも何ら貢献できない、一つの生き方に固執している。すでに「みんながやっていること」をやろうとするのだ。それでは社会はまったく発展しない(え?)。皆がせっせと同じことをして「はい、終了」では歴史に書くこともなくなる(?)。

それは、日本の社会に広く浸透している礼儀かもしれないが、「みんながやっていることをやる」のは、とんでもない腰抜けの考え方だ(ひどい)。

一般の社会でも、他人とは少々違ったことをする人こそが歴史に残るのだ(だから何なの?)。

だから、仏教徒の立場からすると、みんながやっていることではなく、「革命的に正しいこと」をする勇気をもって欲しいのだ。

自分がやろうとしていることが、賢者の認める正しい行為(?)ならば、何も心配する必要はない。

成功すれば素晴らしいし、もしも成功しなくても、正しい道を歩もうとした努力は称賛される。だから、一切の生命が精神的な病で倒れているが、自分は病気から立ち直って健康的に生きよう。輪廻(転生)という重病(?)から抜け出す道にチャレンジしてみよう、と明るく励むことだ。

次に後段の偈(経文)(一九九)だが、これは、「あせって悩む」生き方の無意味さを教えている。生き物を観察すると、みないつも忙しく動きまわっている。

人間は忙しいことに言い訳を用意するが、大層な理由はどこにもない(?)。

例えば、動物を観察してみよう。彼らは何と忙しいことか。絶えずせわしなく素早く動き、決して落ち着きがない。そして、その忙しいという気持ちは、かなりの苦しみであり、強烈なストレスになる。これは精神的な空白感である空(むな)しさを感じて生きていることを意味する。

虫も、魚も、鳥も、動物も、人間も、みんな忙しく動きまわって強烈なストレスを溜め込んでいるのだ。忙しいというと、良いことではないか、と思うかもしれないが、本当は精神的な焦りを忙しいという言葉で覆(おお)い隠しているだけなのである。

ブッダ(=お釈迦さんのこと)はニコッと笑って私達にこう問いかける。「あなた方はとても忙しいですね。では何か大事なことでもやっているのですか」。もちろん、私達は何もやっていません(?)。

それなのに、忙しいのはなぜか。

(肉体にまつわる)五欲を満たすために必死になっているからだ。五欲とは、
(1)見るものを探す
(2)聞くものを探す
(3)味わうものを探す
(4)嗅(か)ぐものを探す
(5)体に触れるものを探す
というだけで、それだけで忙しいのだ。

世の中には、必死で忙しく働き、膨大な財産を築く人達もいる。しかし、彼らが一生かかっても、その財産を使いきることはできない。

ライオンが力に任せて獲物の動物を何十頭と倒したところで、全部食べきる前に腐ってしまうだろう(?)。

人間が金儲けをすることも、これと同様なのだ。百年たっても、二百年たっても使いきれないほど財産を増やす人もいるが、忙しくて自分でお金を使う暇がないのだ。金儲けのために、ヨットを買っても乗る暇がないし、いくつもの別荘をもっているのに、そこでのんびりとくつろぐ暇もない。

食事を採る時でさえ、10 万円もする料理にポンと平気で代金を支払えるのに、食べる暇がないから、サンドイッチをかじりながら仕事をしているという具合だ。

だから、いくら、忙しい、忙しい、と言っても、結局は無知に沈んで終わるだけの話なのだ。この地球の土をあっちからこっちへ運んだようなものだ。

自分が死んだらすべてを手放して、土に戻らないといけない。膨大な財産を築いて何になるのか、と言えば何にもならないのだ。ただ、忙しいだけなのである。

そうやって限りなく忙しく生きて、極端に精神的なストレスを溜(た)めて、心の空白感を抱え込む。すべての生命はその空白感に悩まされて生きているのである。

ブッダは、「その中にあって、何の忙しさも感じないで、穏やかにいようではないか」と提案している。

食事をする時には、体を維持するために必要なものだけを食べれば気が楽だ。対して、グルメに生きようとすれば、忙しくて苦しくなるのだ。

目の機能は、命を守るのには必要だから、その程度に使えばいい。それが「美しいものを見なければ」となってしまうと、とたんに忙しくなるのだ。

耳も人との会話や危険の察知には必要だから、その程度に使えばいい。それが教養を身につけるために「美しい音楽を聴かねば」となって音楽の世界にのめり込んでしまうと、忙しくてキリがなくなってしまう。

五欲を探し求めることに、人々は必死だ。忙しい人生には一瞬たりとも休みがないのだ。それは無知な生き方なのである。

必死になって五欲を追い、探し求める必要はどこにもないのだ。このことを理解して、命を支えるために必要なものを、適当に揃(そろ)えて生きればいい。

五欲を追い求める忙しさから離れ、落ち着いて、清らかな心を育てようと励むならば(唐突ですね)、私達ははじめて「忙しい」という呪縛(じゅばく)から逃れることができるのだ。

とのこと。

次回、すこしばかり感想を書きたいと思います。

~~~~~

・経文~きょうもん~仏教語~経典。またはその文章。

・翻弄~ほんろう~思うままにもてあそぶこと。
(用例)運命に翻弄される。荒波に翻弄される船。

固執~こしゅう→こしつ~かたく自説を主張して曲げないこと。
(用例)自分の立場に固執する。
(参考)こしつはこしゅうの慣用読み。

・呪縛~じゅばく~まじないをかけて動けなくすること。転じて、心理的に束縛すること。
(用例)呪縛から解放される。

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(一九八) と (一九九) について

377_法悟28-5-2(Sさん関連。一部改変あり)

5 すべての生命は病んでいる

病気の世の中で、
健(すこ)やかに楽しく生きよう。
病気に悩む人々の中で、
健康な人間として生きてゆこう。

(一九八) (第15章 幸せ より)

あせって悩む世の中で、
落ち着きを保って楽しく生きよう。
あせって悩む人々の中で、
落ち着いた人間として生きてゆこう。

(一九九) (第15章 幸せ より)

(1) S さんは輪廻転生をしている、その最中(さなか)にある生命(肉体人間とその中身の霊魂魄(れいこんぱく)を指しているのだろう)は、今あらわれているものをも含め、その心が重病の末期症状のような状態だと、いわば、ボロクソに言っている。

これは、お話を際立たせて、先鋭化させてわかりやすくさせるための言い回しだとは思うが、ちょっと話の運びが雑だと思う。

輪廻転生を通して、この世に肉体人間として生まれてくるのは、基本的にはあまたの過去世で積み重ねてしまった、神様のみ心から外れた、真善美に悖る想いと行いの業想念(以下、単に業想念とする)を、主として病争貧苦の形で償い、消失させて、霊魂魄についた汚れを落とすためである。

だから、大抵の人は、病争貧苦の何かしらを、その人生において味わうはめになるが、この償い、あまたの過去世での因縁としての業想念の度合いは、千差万別以上の無尽蔵にわかれていて(70 億人以上いるからね)、全部が全部、どうしようもない罪悪深重の凡夫ばかりだとは限らないからだ。

業想念の程度の軽い人や、想いのかなり整ったきれいな魂の人、そして、使命を帯びてあえてこの世に降りてくる人もいるからだ。

S さん(と仏教一般)は、その貧瞋癡(とんじんち)の 3 つをその心の病の原因としているが、これもそれだけには限らないだろう。

心の病は、霊性的に見れば、肉体人間の抱く想いが、神様のみ心に適(かな)わない、真善美に悖る場合に含まれると言えるからだ。

業想念一般を考えた場合、欲と怒りと無知だけでは、範囲を絞り過ぎである。

従って、心の病、想いの乱れは、業想念全般にわたると言えるだろう。

そして、S さんは、私達はこれに対して、どのように生きてゆけばよいかについて、頑張って立ち直る、(心を)健康的にするのが正しい対応だとしている。

これは、要するに、私達肉体人間の抱く想いと行いを整えるということだ。

他力信仰的に言えば、世界平和の祈りと守護の神霊さんへの感謝行によって、いくつもの過去世から溜まっている因縁としての業想念の、この世で因果としてのあらわれを少しでも緩和・消失できるものならば、すること。

そして、現世での想いと行いも、祈りと感謝行の助けを借りながら、少しでも業想念を減らすように、可能な限り整えることで、来世以降での業想念のあらわれを少しでも緩和・消失させるようにすること。

こうした形で肉体人間としての想いを整えることが、望ましいと言えます。

(2) S さんは、みんながやっていることをやるのは、とんでもない腰抜けの考え方だとしているが、これはちょっとひどいんじゃないですか。

凡庸(ほんよう)に甘んじるな、極限までに気高く生きよ、と言いたいのだろうが、この書き方は、ちょっと勇み足が過ぎると思う。

いくら、この世は厳しく、願望実現や自己実現は難しいからといっても、各人の因縁因果は、千差万別である。生まれつきに、それぞれに宿命も異なり、運命も異なり、能力も異なるからだ。

一番大事なことは、各人が各々置かれた環境や立場を生かしながら、祈りと感謝行を欠かさずに、神様のみ心に適った生き方をしていき、天命を果たしてゆくことだ。

激しい生き方をする定めの人もいるだろうし、穏やかな人生を歩みながら天命を果たしてゆく人もいるだろう。

それは、各々の因縁因果次第。

青年よ大志を抱けとばかり、誰もが無理に、無茶をしてまで気張る必要はない。
そのはずだ。

歴史に残ろうが何だろうが、どうでもいいではないか。

その気概は買えるが、そんなことばかりにこだわるのは、見栄や高慢につながる業想念を起こしてしまいかねないのではないか。

歴史に残らなかろうが、誰にも評価されなかろうが、神様のみ心に適うと信じられる道を進むだけでよい。

極端なことを言ってしまえば、歴史に名を刻むだの、人様の評価なんて、どうだっていいんだ。

もっと言えば、現世での評価を期待しないことはもちろん、輪廻転生を通した遠い来世以降の将来の評価すらも度外視して期待すべきではないのだ。

だから、天の蔵に宝を積むことさえも意識しないのである。

妙好人の宇右衛門さんのように、何も考えずともすべて無心のようにスッと素晴らしい行いができることをめざすべきだからだ。

評価は後からついてくるものだが、一切、期待は滅却して、度外視できれば理想的ということです(ちょっと、さびしいですけどね)。

相対評価にとらわれずに、絶対評価をすべきである。

いまだに業想念に影響されたこの世の評価基準にとらわれるよりも、神様の視点に立つべきだということ。

あくまでも、自分自身の想いとその良心(神様の分霊を本質とする肉体人間としての自然な判断力)を照らし合わせながら、歩んでゆくだけだ。

そりゃあ、人様から頂いた正当な評価には、心からの感謝をしていくのが(神様の子としての)人の道だが、これにとらわれ過ぎるのは、想いを乱すことにつながる恐れがあるのだ。

従って、その意気やよし、と力むのもわかるけど、あまりおおざっぱにハッパをかけずに、想いについては細心の注意を払うべきだと思います。

(3) 上記のように、各人が置かれた環境や立場で、神様のみ心に適うように、ひたむきに生きてゆけば、忙しがって、生涯使いきれない財産を稼ぐことに追われまくり、この世を去る時に、自分は一体何をやって来たんだ、と後悔する(あの世にまで財産は持っていけないからね)ような、本末転倒な人生を歩むこともなくなる。

今までも書いてきた通り、人間=肉体人間であるとの肉体人間観にもとづき、自らとその近しい者だけの利害を最大化すること、中でも、肉体人間の五感にまつわる欲望を最大化することばかりにとらわれているから、結果として本末転倒な忙しい状態に陥ることになる。

祈りと感謝行でひたむきに生きてゆけば、守護の神霊さんが、(受けるべき因果は仕方ないにしても)よきに取り計らって下さると思います。

そうすれば、何事も過度になることはなく、必要なものが、必要な時に、必要な分だけ得られていく、自然法爾(じねんほうに)・行雲流水といった形になっていくと思います。

だから、何事も必要十分で足りるような形に自然に落ち着いてくるはずですよ。

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追記: 2021/08/30 18:32 〜訂正内容〜

本文を加筆・訂正しました。