おぶなより

世界平和の祈りに寄せて

422_法悟28-25-1

第 4 週 人格の完成をめざす

4 豊かに生きられる唯一の条件

物惜しみする人は天界に行けない。
愚か者は布施を賞賛しない。
しかし賢者は布施に随喜(ずいき)し、
それによって彼は来世に幸福となる。

(一七七) (第13章 世の中 より)

適当にいきます。

豊かさとは何か。私(= S さんのこと)なら、ただお金があるだけではなく、人生を支えるものがどれだけあるか、を豊かさと定義する。

自分の命があらゆるところで支えられているから、私(= S さんのこと)は「豊かだ」と感じている(そもそも頂いた命から成長から生命維持から環境から何から何まで、全部神様のお陰様ですからね。ありとあらゆるものすべて、みんな頂いている。だから、何一つ自分のものはないという話になる。一般的な仏教ではここから虚無に話を持っていってしまうけど)。

では、私は、なぜ、お金があることを豊かさとしないか。それは人間だけに限られた豊かさだからなのだ。これだけになってしまうと、普遍的な真理にはならない。

例えば、お金も、将来的にはその形態がガラリと変わり、紙幣を発行せずにすべて電子化されてしまうかもしれない。だから、今の段階だけで豊かさを定義することは必ずしも正しいとは言えないのである。

本当はお金がたくさんあることが豊かさではなく、援助がたくさんあることが豊かさなのである。

これは、犬や猫にも言えることだ。そして、これら以外のどんな生命についても言える。

仏教での餓鬼は、貧乏で援助がない生命のことだ。食べるものが必要なのに手に入らない。しかも、食べずに死ぬことができないのだ。これは一番苦しいことなのである。

なぜなら、(肉体)人間ならば食べなければ、せいぜい、2、3 週間で苦しんで死ねるが、餓鬼は何百年、何万年、何億年たっても、業がある限り死ねないのである。それゆえ、仏教では、餓鬼をとても不幸な存在だと説いているのだ。

仏教で天界がとても幸福なところとされているのは、生きるための援助がたくさんあるからだ。必要なものはすべてきちんとそろう。

従って、豊かさとは、命を支えてくれる援助の多さを言うのである。

ここで留意すべきは、援助は自分の中から出るものではなく、外から来るものを意味するということだ。

では、知識の場合にはどうか。体力と同様、これは自分の中から出るから、援助ではない。しかし、知識もいずれは陳腐化する時がある。そこで、知識の拡充をはかり、磨くことのできる援助がそろっていれば、これが豊かさになるのだ。

私達が自らそなえているもの、体力、美、知識など持って生まれたものは、すべてやがては減っていく。だから、どんな生命についても、生きるためには援助が不可欠となってくるのである。

さらに、私達は豊かになるには、どうすればよいのか、について考えてみよう。

援助は外から来るものだ。だから、外から援助が得られるように、援助を自分に引き寄せるエネルギーを持つことが大切だ。

援助を引き離すエネルギーを持ってしまうと貧しくなるので、豊かになるためには、援助を引き寄せるエネルギーをたくさんつくる必要がある。

これはある種の精神的なエネルギーで、これを育(はぐく)めば豊かになれるのだ。

布施がこれに当たる。これが援助を引き寄せるエネルギーなのだ。

布施はその行いよりも、まず、その布施をしようとする気持ち、すなわち、周(まわ)りにいる人々、生命を助けてあげたいという心のエネルギーが大切なのである。

外に向かって援助をすると、周囲の人々が必然的に自分に近寄ってくる。すると、今度は自分に対してもあらゆる方面から援助が入ってくるようになる。

つまり、周囲の援助を得るためには、自分が絶えず布施をするという精神状態を保たなければならないのだ。

しかし、これは行動が伴う必要がある。援助の気持ちだけではダメだ。ケチったり、物惜しみしたりせずに、実際に布施として行動に移すのだ。

とにかく、あまりいろいろ考えずに、人助けをしたり、ボランティアをしてみることだ。身近な人々に貢献して社会と強いつながりを持つことが大切なのである。

そうすれば、いずれ布施をしている意識すらなくなり、また、相手に見返りを求めるギブアンドテイクの気持ちさえもなくなってくるであろう。

そうすれば、あらゆる人々から数多くの援助が得られるようになってしまうのだ。

そのお手本と言えるのがマザー・テレサさんだろう。彼女はお金も教会の援助もないままにインドに行き、貧しい人々に救いの手を差し伸べた。彼らがせめて寿命をまっとうする前にカトリック教徒にしたいと考えてもいたのだろう。

しかし、とにかく貧しい人や道端で死にかけている人を救うことが何よりも大事だった。そのために、彼らが人間らしく最期を迎えられる施設をつくり、そこで彼らにわずかな食料と水を与えていた。

何年か経つと、世界中からあらゆる援助が彼女に届くようになる。もちろん、彼女にはそうした援助を求めた訳ではない。彼女はただひたすら援助をしたいという純粋な気持ちで、援助をしていただけなのである。彼女はこうした純粋な援助の気持ちを持ち続けた。彼女は、歴史上、例のない速さでカトリックの聖人にもなっている。これも彼女にとっては援助なのだ。だから、彼女の人生はとても豊かだったと言える。究極の金持ちでも得られないものまで得たのだから。これが、豊かさの定義と方程式なのだ。

彼女の布教活動については、インド人からいろんな悪口を言われたのだが、彼女の奉仕活動はそれでも汚れることはなかった。だから、彼女は豊かになってしまったのである。

もしも皆さんが「豊かさとはお金ですよ」とするなら、マザー・テレサさんは、貧しい人ということになる。世間で言っている豊かさの定義は、正しくはないのだ。真の豊かさを求めるならば、自分以外の生命に援助をすることだ。それが豊かになるための唯一の条件なのである。

その点からすれば、物惜しみとケチは、豊かさにとっては猛毒となる。豊かになりたい人は、豊かになりたいという気持ちを、ひとまずどこかにおいておくことだ。なぜならば、豊かになりたいという気持ちそのものが汚れだからだ(ここで S さんが述べている豊かさは、金儲けや財産獲得のことを言っているように見える)。

心を開き外に向かって常に援助をしていれば、豊かになりたいと願わずとも、自然に豊かになることができる。だから、私(= S さんのこと)は、マザー・テレサさんの例を挙げたのだ。

物質的な豊かさを得ようとする下心(金儲けや財産獲得のことを言っていると思われる)を持って布施をしても、行為が微妙に汚れているので、中途半端な結果しか得られないかもしれない。そう考えると、知識として布施の働きを理解しておけば、布施をする時に、心が汚れるのを防ぐことができる。

仮に心が汚れたとしても、それでも布施をした方が良い結果が得られるのも確かだ。布施という行為自体はポジティブなエネルギーだから、それによって自分が豊かになれるのである。

たとえ、自分が豊かになりたいがために、一生懸命、ボランティアをしたとしても、布施をしたという結果自体は確実に残る。気持ちの純粋さはともかく、行為が同じならばそれなりの結果は得られるのだ。しかも、自らの気持ちをごまかさず、「豊かになりたいから布施をするのだ」と認めたら、心の汚れはなくなる。この場合には偽善にもならない。

危ないのは、布施をする時に、知らず知らずの無意識なうちに、豊かになりたいという気持ちが心に入り込んでしまうことだ。

自分で自分をごまかしている、騙している訳だから、それが汚れた行為になってしまうのだ。そうすると、あまりいい結果は出てこない。

それならば、いっそのこと正直に、「俺は金持ちのように豊かになりたい。だから布施をするぞ」と思った方が心の汚れの影響を受けにくいと思う。

純粋な心もちで、布施をしたいと思ったところで、私達人間には(悟りを開けない限りは)煩悩がある。だから、心の汚れの影響を避けることは難しい。

煩悩が消えない限りは、自分が豊かになりたいという気持ちは消すことはできないだろう。

それならば、欲は掻(か)くかもしれないが、正直な気持ちで布施をした方が、心は楽になる。

もしも、純粋に布施をしたいのなら、智慧を使うことだ。

豊かさというのは、「特別な欲」という意味ではなく、命を支えるための必需品のことなのだ。

いい空気を吸いたいという気持ちも、きれいな水を飲みたいという気持ちも、特別な欲ではない。私達の命の維持には必要なものだ。そうやって豊かさの意味を智慧でみることだ。

そうすると、欲という煩悩が減るのだ。豊かさは金儲けをして贅沢な暮らしを手に入れることではなくて、「人生を支える援助」をたくさん持つことだ。

これは、輪廻転生をしている限りは、不可欠なものなのだ。援助は解脱した人々には要らないが、まだ解脱できない私達には、呼吸をするのと同様に、必需品であり、揃わなければ困るのである。

だから布施をするのには、智慧を使う。それは一つの手段なのである(?)。

純粋に布施をする、心を汚さないようにしながら、豊かになるためには、もう一つやり方がある。

豊かになりたいという気持ちではなくて、人助けの行いそのものを喜びとすることだ。こうすれば、布施にも充実感が得られ、やる気が出てくる。

布施は私の生きがいだとすてしまうように、布施をすること自体に喜びを感じることだ。そのようにして生きることができれば、欲による心の汚れが消えてしまうのである(???)。

とのこと。

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・随喜~ずいき~①(仏教語)他人の善行を見て、心に喜びを生じること。
②心から喜びありがたがること。
ここでは、①の意。

(参考)随喜の涙~ありがたさのあまりにこぼす涙。