おぶなより

世界平和の祈りに寄せて

377_法悟28-5-2

5. すべての生命は病んでいる

病気の世の中で、
健(すこ)やかに楽しく生きよう。
病気に悩む人々の中で、
健康な人間として生きてゆこう。

(一九八) (第15章 幸せ より)

あせって悩む世の中で、
落ち着きを保って楽しく生きよう。
あせって悩む人々の中で、
落ち着いた人間として生きてゆこう。

(一九九) (第15章 幸せ より)

(1) S さんは輪廻転生をしている、その最中(さなか)にある生命(肉体人間とその中身の霊魂魄(れいこんぱく)を指しているのだろう)は、今あらわれているものをも含め、その心が重病の末期症状のような状態だと、いわば、ボロクソに言っている。

これは、お話を際立たせて、先鋭化させてわかりやすくさせるための言い回しだとは思うが、ちょっと話の運びが雑だと思う。

輪廻転生を通して、この世に肉体人間として生まれてくるのは、基本的にはあまたの過去世で積み重ねてしまった、神様のみ心から外れた、真善美と愛に悖る想いと行いの業想念(以下、単に業想念とする)を、主として病争貧苦の形で償い、消失させて、霊魂魄についた汚れを落とすためである。

だから、大抵の人は、病争貧苦の何かしらを、その人生において味わうはめになるが、この償い、あまたの過去世での因縁としての業想念の度合いは、千差万別以上の無尽蔵にわかれていて(70 億人以上いるからね)、全部が全部、どうしようもない罪悪深重の凡夫ばかりだとは限らないからだ。

業想念の程度の軽い人や、想いのかなり整ったきれいな魂の人、そして、使命を帯びてあえてこの世に降りてくる人もいるからだ。

S さん(と仏教一般)は、その貧瞋癡(とんじんち)の 3 つをその心の病の原因としているが、これもそれだけには限らないだろう。

心の病は、霊性的に見れば、肉体人間の抱く想いが、神様のみ心に適(かな)わない、真善美に悖る場合に含まれると言えるからだ。

業想念一般を考えた場合、欲と怒りと無知だけでは、範囲を絞り過ぎである。

従って、心の病、想いの乱れは、業想念全般にわたると言えるだろう。

そして、S さんは、私達はこれに対して、どのように生きてゆけばよいかについて、頑張って立ち直る、(心を)健康的にするのが正しい対応だとしている。

これは、要するに、私達肉体人間の抱く想いと行いを整えるということだ。

他力信仰的に言えば、世界平和の祈りと守護の神霊さんへの感謝行によって、いくつもの過去世から溜まっている因縁としての業想念の、この世で因果としてのあらわれを少しでも緩和・消失できるものならば、すること。

そして、現世での想いと行いも、祈りと感謝行の助けを借りながら、少しでも業想念を減らすように、可能な限り整えるように努めることで、来世以降での業想念のあらわれを少しでも緩和・消失させるようにすること。

こうした形で肉体人間としての想いを整えることが、望ましいと言えます。

(2) S さんは、みんながやっていることをやるのは、とんでもない腰抜けの考え方だとしているが、これはちょっとひどいんじゃないですか。

凡庸(ほんよう)に甘んじるな、極限までに気高く生きよ、と言いたいのだろうが、この書き方は、ちょっと勇み足が過ぎると思う。

いくら、この世は厳しく、願望実現や自己実現は難しいからといっても、各人の因縁因果は、千差万別である。生まれつきに、それぞれに宿命も異なり、運命も異なり、能力も異なるからだ。

一番大事なことは、各人が各々置かれた環境や立場を生かしながら、祈りと感謝行を欠かさずに、神様のみ心に適った生き方をしていき、天命を果たしてゆくことだ。

激しい生き方をする定めの人もいるだろうし、穏やかな人生を歩みながら天命を果たしてゆく人もいるだろう。

それは、各々の因縁因果次第。

青年よ大志を抱けとばかり、誰もが無理に、無茶をしてまで気張る必要はない。

そのはずだ。

歴史に名が残ろうが何だろうが、どうでもいいではないか。

その気概は買えるが、そんなことばかりにこだわるのは、見栄や高慢につながる業想念を起こしてしまいかねないのではないか。

歴史に名が残らなかろうが、誰にも評価されなかろうが、自ら神様のみ心に適うと信じられる道を進むだけでよい。

極端なことを言ってしまえば、歴史に名を刻むだの、人様の評価なんて、どうだっていいんだ。

もっと言えば、現世での評価を期待しないことはもちろん、輪廻転生を通した遠い来世以降の将来の評価すらも度外視して期待すべきではないのだ。

だから、天の蔵に宝を積むことさえも意識しないのである。

妙好人の宇右衛門さんのように、何も考えずともすべて無心のようにスッと素晴らしい行いができることをめざすべきだからだ。

評価は後からついてくるものだが、一切、期待は滅却して、度外視できれば理想的ということです(ちょっと、さびしいですけどね)。

ゆえに、相対評価にとらわれずに、絶対評価をすべきである。

いまだに業想念に影響されたこの世の評価基準にとらわれるよりも、無為自然のような神様の視点に立つべきだということ。

あくまでも、自分自身の想いとその良心(神様の分霊を本質とする肉体人間としての自然な判断力)を照らし合わせながら、歩んでゆくだけだ。

そりゃあ、人様から頂いた正当な評価には、心からの感謝をしていくのが(神様の子としての)人の道だが、これにとらわれ過ぎるのは、想いを乱すことにつながる恐れがあるのだ。

従って、その意気やよし、と力むのもわかるけど、あまりおおざっぱにハッパをかけずに、想いについては細心の注意を払うべきだと思います。

(3) 上記のように、各人が置かれた環境や立場で、神様のみ心に適うように、ひたむきに生きてゆけば、忙しがって、生涯使いきれない財産を稼ぐことに追われまくり、この世を去る時に、自分は一体何をやって来たんだ、と後悔する(あの世にまで財産は持っていけないからね)ような、本末転倒な人生を歩むこともなくなる。

自分はできる限りのことはやってきた。

たとえ、神様のみ心に照らして十分とは言えないまでも、精一杯のことはしてきた。

それでいいではないか。

言い方は悪くなるが、自己満足だけでいいんだ。

人様は関係ない。

自分の中の神様のみ心とだけ対話をすればいい。

そうすれば、特段意識しなくても、自然に人のためにも尽くすようになるだろうし、自分を痛めたり、犠牲にし過ぎることがないように周囲との調和も自ずとはかっていけるはずだ。

今までも書いてきた通り、人間=肉体人間であるとの肉体人間観にもとづき、自らとその近しい者だけの利害を最大化すること、中でも、肉体人間の五感にまつわる欲望を最大化することばかりにとらわれているから、結果として本末転倒な忙しい状態に陥ることになる。

祈りと感謝行でひたむきに生きてゆけば、守護の神霊さんが、(受けるべき因果は仕方ないにしても)よきに取りはからって下さると思います。

そうすれば、何事も過度になることはなく、必要なものが、必要な時に、必要な分だけ得られていく、自然法爾(じねんほうに)・行雲流水といった形になっていくと思います。

だから、何事も必要十分で足りるような形に自然に落ち着いてくるはずですよ。

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①追記: 2021/05/19 18:18
②追記: 2021/05/22 02:05
③追記: 2024/04/28 22:51

〜訂正内容〜

上記複数回にわたり、本文を加筆・訂正しました。