01 釈迦はいかなる存在か
・天上天下唯我独尊 ー 釈迦の産声(*)
ひろさんは、唯物論で考えたら、摩訶不思議なお釈迦さんの誕生の伝記について、これといった論評をしているようには読めない。
前回私が書いた内容よりやや詳しく普通の伝記として紹介しているだけなように思える。
後で出て来るのだが、ひろさんのように、小乗仏教におけるお釈迦さんでは真理の保証をするための特別な権威を得ることはできないという立場なら、絶賛か、少なくともそこそこには称(たた)えてもよさそうに思えるのだが。
いずれにしても、なぜ、ひろさんが、伝記をごく普通に紹介をしているのか、その理由はわからない。
あの神秘的な(?)お話を紹介するだけで、十分だと思ったのかな?
わからないけど。
以下は私の感想を書く。
前回概要を読まれたならおわかりになると思うが、あのお釈迦さんの誕生の描写は、常識的には、到底、信じることはできない内容だ。
不浄を避けたかったためか、女性器のイメージを避け、生まれながらに、それこそ、生まれ落ちた瞬間から、知性溢れた桁外れな聖人のように描くことで、特別な権威をもたせるための演出をしているように思える。
仮に、このお釈迦さんの生誕話が創作だとした場合、なぜ、そのような創作をするのかを、考えてみたい。
それには、多分、以下のような理由があるだろう。
1.布教・教化のため
ひろさんの書いてある感じだと(当時はお釈迦さんの教えを歯牙(しが)にもかけない人々がいた云々)、お釈迦さんの教えはまだ広まってはおらず、しかも、無条件に一般の人々に浸透させ、他の宗教を信じている人々をすぐに感化する訳にはいかなかったようだ。
そんな直後に経典の作者さんが考えたのは、お釈迦さんに絶対の権威を与え、一般の人々も、他の宗教を信じている人々をも、つつがなく簡単に教化することだった。
そうしたかった。
そのような、人々を恐れ入らせる、あるいは、スムーズに教化するためには、お釈迦さんは、生誕直後から普通のありふれた人間とは違う、もちろん、既存の宗教の教祖とも明らかに違う特別な存在であると示すことで、別格の人間であることを強調したかった。
みなまには、こう考えなくても、無意識にこう思うことが、あのような話を創作させたと考えられる。
2.信仰者の気持ちとして
自分の信仰は、絶対に間違いないものだと思いたい。
宇宙の真理、もとい、ありとあらゆるものをつさかどる真理に通じているものであるとの確信を得たい。
こうした土台があって、はじめて安心して身を任すことができる。
自らの信仰に対する不安やブレを鎮めるための抑えになるし、他の宗教の信仰者に対した時にも、揺るぎない自分を保っていたい。
そして、人間は、悟りを得ていなければ、誰しもが大なり小なり自己顕示欲がある。
自分を誇示したい。自慢したい。こうした、業想念が大なり小なりあるのだ。
自分の存在を去勢しきって、否定しきって、精神の安定を保つのは難しい。少しは自尊心を持たないと、生きにくい面があるからだ。
だから、自尊心を持ち、自己肯定感を持つのはいいのだが、ともすると自己顕示欲の業想念が鎌首をもたげかちになる。
そんな時に、自分の生き方の根本をなす心の芯のあり方の拠り所としている、背景としているところの宗教が、心から信奉しているものならば、自分を示すための有力な材料として用いたい。
自分は、あのような素晴らしい宗教の、当然、威厳のある超人的な教祖の開いた宗教の、その一員に属している。
そう自分に言い聞かせることは、心を安定させることにつながり、精進の動機づけ(モチベーション)にもなる。
このように信仰を続けていくためには、教祖を手の届かない絶対的な崇高な存在に祭り上げておく必要がある。
だから、あのような演出を考えた。
ぶっちゃけ表現してしまうと、要は、取り込みたい、安心したい、自慢したいということ。
こう考えることができると思います。
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(*)ひろさんの本では、初声と書いてあったが、あまり一般的とは思えないので、産声に変えた。
ご了承下さい。
・初声~はつこえ~① 鳥・虫などの、その季節季節になって、初めて鳴く声。
はつね。
※万葉(8C後)一〇・一九三九「ほととぎす汝が始音(はつこゑ)は吾れにもが五月の玉にまじへて貫かむ」
② 新年になって初めて聞く声、音。《季・新年》
※千五百番歌合(1202‐03頃)二九番「春風のをのへの雪を吹くからに音づれそむる松の初声〈源家長〉」
③ 子どもが母胎から生まれ出て、初めて泣く声。うぶ声。
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追記: 2021/11/04 21:09 〜訂正内容〜
本文を加筆・訂正しました。