おぶなより

世界平和の祈りに寄せて

375_法悟28-4

第1週 心の法則を知る

4 悲しみと恐怖の生みの親

渇愛(かつあい)から悲しみが生まれ、
渇愛から恐怖が生まれる。
渇愛から自由になった者に、
悲しみは存在しない。
どうして恐怖があろう。

(二一六) (第16章 愛しきもの より)

(お断り)個人的な判断により、原文の漢字化、句読点の追加、段落分けの変更(見やすさのためなど)を行っています。なお、これは以下のこのブログにすべて共通とします。あらかじめ、ご了承願います。

また、とりあえず、何とかまとめてみたいと思います(かなりの省略・改変・創作の書き足しなどあり)。

仏教には渇愛という言葉がある(手元の字引には載っていなかった。渇望なら出ていた)。

愛=欲しい、で、渇=喉が乾いている状態、であるから、渇愛はもっと欲しいという意味のことである。

私達は渇愛がずっと続いている。欲しいものを手に入れることができても、それで完全に満ち足りて、完結ということはまずない。もっと、もっと、という気持ちが必ず残ってしまうのだ。これが心が渇いて執着を起こしている状態だ。

執着は、欲しいという気持ちのことだ。渇愛があると貧乏思考( S さんの表現。このように書いてある)はずっと消えない。もっと欲しいというのは、心が満たされていない状態だ。だから、渇愛がある限りは、永久に貧乏な気分で、みじめな気持ちでいなければならないのだ。

母親の言うことを素直にきき、よく勉強している子供でも、もっと上を目指すようにさせたくなる。これが貧乏思考なのだ。

私達は目標に向かい様々な努力をするが、期待した結果を完璧に得るのは稀だ。どうしても完璧に満足できるほどの結果は得られない。

難しい目標達成を成就させて、成功する人間もいるが、残念ながらわずかだ。努力をすればするほど、これがわかってくるから、悲しくなってしまうのだ。

最先端の科学の研究者もそうだろう。心身を賭(と)して研究に邁進(まいしん)し、成功をおさめて、立派な研究者になれたとしても、ごく限られた分野の研究者にしか過ぎず、その限界を自覚すると自分のしていることの小ささに悲しくなるのだ。

それは、もっと研究成果をあげたい、という欲があるからだ。ずば抜けた研究成果を渇望しているのだ。

そこで、このくらいが人間一人の仕事だと見切れればいいのだが、千人分くらいの仕事をしたいと思うから現実とのギャップに苦しみ、悲しくなってしまうのだ。

つまり、渇愛は、自分の好きなものが、好きなだけ得られない、という悲しみを作っているのである。

例え何かを得たとしても、渇愛によって、世界にはもっと上がいることが見えてしまうために、悲しみにつつまれるのだ。

「あなたが得たものはほんのわずかで、まだ得ていないものがたくさんあるんだよ」と渇愛が見せてくれるから、悲しくなる、そして、みじめにならざるを得なくなるのである。

こうした悲しみや恐怖感によって、人間は精神的な病気になってしまうのである(?)。

自分の子供をかわいいと思うのも渇愛だ。かわいくて、かわいくて、心配でたまらなくなってしまう。だから、わが子が少年野球の試合に負けたら、親は悲しくなるのだ。

このように、渇愛が悲しみをつくる。これは、避けることのできないことなのだ。

渇愛のもたらすのは、それだけにはとどまらない。渇愛は、恐怖感をも生み出す。

例えば、お金に目のない人が大金を手に入れたら、さらに欲しいという気持ちだけでは済まないのだ。お金も持ったら持ったで、今度は失う恐怖と向き合わなければならない。

こうしたことは、何もお金に限らず、いかなるものであってもこれは同じだ。私達が得たものはすべて、決していつまでもそのままの状態ではとどまっていてはくれないからである。

いかなるものでも必ず変化して、いずれは消えてしまうのが世の習いだ。「家族が楽しい」と思うのもある一時期だけ。なぜならば、永遠不滅・不変の家族はないからだ。家族の形も、時間とともに刻々と変化して、どの時期の家族が最高によかったのか、わからない(?)。

結婚当初か、それとも、赤ちゃんが生まれた時期か・・・。結局は、大変でしたと言うだけなのだ(?)。

「赤ちゃんがいると大変ですけど、少し大きくなったら楽になるのではないか」と思うが、実際に子供が成長してみると、「赤ちゃんの時はもっとかわいかった。今は生意気になってわがままばかりで・・・」と失望してしまう。一人前の大人になれば家を出て独立してしまうし、本当に寂しいことばかりです。

悲しさ、恐怖感、すべての精神的な病気、寂しさ、生きる苦しみ、悩みは、渇愛によって生み出されるものだ。

だから、何事に対しても、「もっと、もっと・・・」という欲求を捨ててしまえば、それで問題は終わる(?)。

ブッダ(お釈迦さんのこと)も、「渇愛を置いておけ」と言っている。何があろうとも、穏やかに冷静に、あらゆる条件にも対応できるようにしたいならば、「渇愛」という病気の種を捨てるしかないのだ。それを捨ててしまうと、悲しみや恐怖感、そして苦しみなどの精神的な病気は、何一つなくなってしまうのである(?)。

この世界が苦しみにあふれているのは、私達が渇愛を捨てることができないからだ。「あれがもう少しあれば・・・」という気持ちが、地球規模の大きな問題を作り出している。「これでは足りない。もっと欲しい」という渇愛に突き動かされて、人と人とが争い合っている。国と国とが、資源を巡って争い、これを奪い合っている。どちらも苦しんでいるのだ。

現代では中東で石油を巡って悲惨な戦争が起きているが、よく考えれば、石油があっても、なくても苦しんでいるのだ。

問題を起こしているのは、その大元は、私達の心の中にあるほんのわずかな渇愛、「もっとあればいいなあ」という気持ちなのである。(つまるところ)それが恐ろしい苦しみを作り出すのである。

だから、渇愛さえなければ、悲しみと恐怖で精神的な病気になることもない。想像もできないほど、楽しく生きられるのである(?)。

とのこと。

しかし。

輪廻転生により、肉体人間、各々が別々だという、本質は同じ神様の命の分かれという感覚(同胞である自他一体感)の希薄化、自己保存の本能による自らとその近しい者の利益を最大化させる想いの癖がついている肉体人間が、そんな発想の切り替えだけで簡単に、渇愛を捨てることができるものであろうか?

憎い、欲しい、恨めしいなどなどの想いは、皆、真善美に悖る神様のみ心から外れた業想念でしょう。

だから、それを浄めるための、何らかの修行が不可欠だと思うんですよ。

S さん風に言えば、心を修めるのは、古(いにしえ)なら自力修行、現代なら他力修行も不可欠になってくるように思うんですけど。

この必要さの度合いも、個人個人の過去世からの因縁因果次第ではあると考えられますが、祈りや感謝行などによる浄めなしに、観の転換だけで、簡単に渇愛を克服できる人はそんなに多くないと思うんですけど。

まあ、これは個人的な独断と偏見です。

失礼致しました。

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・渇望~かつぼう~のどがかわいて水を求めるように、切実に願い望むこと。熱望。切望。
(用例)自由を渇望する。

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①追記: 2021/05/18 05:35
②追記: 2021/05/18 05:55
③追記: 2021/05/18 06:00
〜訂正内容〜

上記複数回にわたり、本文を加筆・訂正しました。