おぶなより

世界平和の祈りに寄せて

413_法悟28-22-1

第 4 週 人格の完成をめざす

1 生きることに目的など存在しない

最高の利益は健康である。
最高の財産は充実感である。
最高の親類は信頼できる人である。
最高の幸福は涅槃(ねはん)である。

(二〇四) (第15章 幸せ より)

適当にやります。

勝手ながら、前回( 412_法悟28-21-3 )は保留中のままとして、次に進みます。

ご了承願います。

この 1 の表題・・・。

これは、ちょっとマズイんじゃないかなあ。

五井先生( 昭和の宗教家 五井昌久さんのこと )がご存命でこの表題を見たら、果たして何と言われるだろうか・・・。

一見すると、どうせ、人生ままならないのだから、ムチャクチャ OK、カオス OK とも読まれかねない、唯物論者から誤解を招きかねない表題・・・。

宗教というものは、人としての生き方を少しでもより良きもの、より好ましいものにしていくために努力していくものではないの?

各人各様、どんな素養、そして境遇に生まれついたとしても、その中で少しでもより良く生きようとしていくための指針となるものではないの?

その生きていくことに、そもそも目的なんかないんですか?

どうでもいいんですか?

コレ、宗教家のお言葉として、どうなんでしょうかねえ・・・。

この世に生まれた、生まれついたのは、神様が働きかけ、それなりの天命が期待されてこそのもの・・・。

幾度もの輪廻転生を通して、最終的な天命までたどりつくための、さらにここから逆算して細分化された各人生での天命があるのではないの?

そのために、わざわざ、この世に生まれてきたのではないの?

そうしたものは、一切ナシと言うのでしょうか?

しかも、この次の節では、人身得難しが出てくるのに・・・。

表題とは裏腹に中身が充実している場合なら、人々の耳目(じもく)をひきつけるための羊頭・・の逆バージョンになるけれど・・・。

まあ、いいや。

では。

人生にとって最高の利益とは何か。

「それは健康である」とブッダ(お釈迦さんのこと)は言う。

単純過ぎるという人もいるかもしれない。

しかし、これに反論できるのか、と自問自答してみることだ。

健康が最高の利益だと思えば、人生は結構楽しく生きることができるのだ。

健康は、人生を生きていくにあたっては、間違いなく基本である。健康を損ねてしまったら、精神的にも、経済的にも、その負担は半端ではないことも往々にして起きてくる。だから、健康は人間にとってきわめて重要な意味があるのだ。

次に、ブッダは最高の財産は、充実感だと言う。自らの給料の多寡(たか)にかかわらず、ありがたみを感じることができれば、その気持ちこそが財産なのである。

私達が今まさに得られるものの中から充実感を得ていくこと。

それが生きる技なのだ。

充実感を持つことができないと、いつまでも満ち足りない貧乏な気分を味わうことになってしまう。

長者番付に入るほどの億万長者でさえも、充実感がなければ貧しい気分になってしまうのだ。

仮にボランティアで配給された食事でも、「ああ、よかった。おいしかった」という気分になることができれば、充実感を得て貧しい気分はなくなるのである。

このように、常に満ち足りる気分でいることができれば、貧困な考えは消えて、明るく生きることができるのだ。

それとは反対に、「もっと金が欲しい」「もっと金儲けがしたい」と思うと、その心は瞬(またた)く間に暗くなってしまう。

だから、幸福になる秘訣は充実感にあるのである。

次に、最高の親戚とは誰のことか。ブッダによると、その答えは「信頼できる人」だ。

これも、実に的確な言葉である。

人は、よく親戚付き合いに悩まされることが多い。血縁や婚姻でつながっている人達だ。

しかし、こうした人間関係に縛られていたら、人間として成長することの妨げとなる。

だから、たとえ他人でも自分で信頼を置ける人がいるならば、こうした人を親戚と思って信頼関係を築いていくべきだろう。

そうして人間関係の輪を広げていくことができれば、自らの能力や人格も自然と磨かれることになり、スケールの大きな人間に育っていくのだ。

ブッダの教えを現代に合わせて解釈するなら、「友達をつくろう」となるだろう。

仏教では友人関係をとても重要視する。

信頼できない悪友からは距離を置く、その反対に信頼できる立派な人を友にする、そして、自らも人から友人として信頼される人間になろうと励むことが大切なのだ。

次に、最高の幸福とは何かについて、ブッダは涅槃であるとする。

あらゆる生命は幸福を求めて生きているのだから、私達にとって最高の幸福こそが究極的な生きる目的となる。

世界では様々な人が「これこそが生きる目的だ」と主張するが、ブッダに言わせれば、そもそも生きることに目的など存在しないのだ。

人間が何を目的としても、それは生きる目的ではなく、「生きているからやっている」に過ぎない。

それが本当の答えだと言うのだ(本当?)。

生きているから、勉強する、仕事を探す、結婚する、食事をする、旅に出る・・・。

人間は人生の目的(最高の幸福)を設定して夢を追いかけるが、それが達成されても、別にどうってことはない(ひどい)。

もちろん、目的が達成できなくても、何てことはない(ひどい)。

いずれにしても、自分は相変わらず生き続けていて、生きている限り幸せになりたくて、必ず何かをやっているからだ。

ブッダが「最高の幸せは涅槃である(ニッバーナンパラマンスカン)」と説いているのはそのためだ。

涅槃とは、輪廻を乗り越える、解脱することだ。各種の欲望が達成できなくても、どうってことはないが、涅槃に失敗すれば確実に大損をする。

解脱しない限り、生命は限りなく輪廻の中で苦しみ続けるからだ。

生きることは苦しい。

輪廻すること、つまり生きることは苦(ドゥッカ)なのだから、生きていることの中に幸福は成り立たない。

ブッダは、「涅槃を目指すことが生きるものの目的であるべきだ」と教えている。

生きる目的は成り立たないので、「生きることを乗り越えること」を目的とするように提案したのである(本当?)。

しかし、「涅槃を目指せと言われても、よくわからん」と困惑される方も多いかもしれない。

ならば、「最高の幸福は、心を清らかにすることである」と受け取って実践してみて下さい。

怒り、憎しみ、嫉妬、後悔、貪欲、物惜しみ、怠けといった汚れから、心を清らかにした時、また、心をまじりけのない慈しみで満たした時、それまでに経験したこともない幸福感を味わっていることに気づくだろう。

「最高の幸福は涅槃である」とのブッダの言葉は、その教えを実践することによって、真実として体験できるのである。

とのこと。

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追記: 2021/06/24 00:10 〜訂正内容〜

本文を訂正しました。