415_法悟28-23-1
第 4 週 人格の完成をめざす
2 世にもまれなるチャンス
人間に生まれることは難しい。
また生きることも難しい。
真理を聴(き)く機会も得難い。
ブッダの出現は未曾有(みぞう)のこと。
(一八二) (第14章 ブッダ より)
適当にいきます。
人間としてこの世に生まれることは大変に難しいことだ。
それを理解してもらうために、私(= S さんのこと)はこんな説明をする。
皆さんの人生で宝くじの 1 等賞に、連続して 100 回も当選することはあるのか、と常識的にはあり得ない話をする訳だ。
まずあり得ないが、しかし、確率として考えれば、決してないとは言い切れない。
私(= S さんのこと)は、一人の人間が宝くじを買うたびに、1 等賞が 100 回も続けて当たることは、可能性としては不可能ではないけれども、人間に生まれる確率はそれよりもさらに低い、と言いたいのだ。
パーリ経典の伝統的な物語には、人間に生まれてくることがいかに難しいか、が書いてある。
「牛のくびきが穴のところから折れて戸外(こがい)に捨てられている。やがて雨が降って、この二つに折れたくびきが川に流されて、海にまで流れ込む。海の上で二つのくびきが折れたところから重なって、一緒になる瞬間があるかもしれない。その瞬間に 100 年に 1 回しか息継ぎをしないウミガメがちょうど海から顔を出そうとして、一つに合わさったくびきの穴から自分の首を出す」
人間に生まれることはそれくらい難しいという話だ。それは宝くじの 1 等賞に連続して 100 回当たるよりも、さらに難しいだろう。
これは決して大げさな話ではない。仏教では生命を果てしないスケールでみているのだ。
輪廻転生はたくさんの生命の次元に分かれている。地獄があって、人間界があって、天界もあって、それぞれの世界がさらに細分化されている。
物理的に宇宙をみた場合でも、仏教では近代科学が発展するはるか以前から、この太陽系だけではなく、宇宙のあらゆるところに太陽系があって、そこにも生命がいるのだ、と教えてきた。
そうした広大なスケールの生命の世界で、人間はどれくらい少ないかを考えると、その事実が明確にわかるのだ。
小さな蟻塚を見ても、そこには一体どのくらいの生命がいるだろうか。
虫の世界には、人間の数とは比べ物にならないほどの無数の生命がある。
地球上の全体の生命を数えても、人間は本当に少ない。
これに地獄の生命や餓鬼道の生命、天界の生命などを含めたもっと広大な生命の世界で、人間に生まれる可能性は本当にわずかなのだ。
この瞬間にも、もう何万、何億、何兆という生命が死んでいる。
死ぬ生命は次に生まれる場所を探すのだが、人間の世界にはその場所がないのだ。
私達はそれほどの困難な状況で、人間に生まれるというチャンスを得た訳だ。
これに比べれば、宝くじの 1 等賞に 100 回連続して当たることの方が簡単なはずだ。
私達はそれくらい貴重なチャンスに恵まれたのだから、このかけがえのないチャンスを生かさないなんてもったいないとは思いませんか。
ただ、食べて、寝て、人の悪口や噂話に明け暮れて、嫉妬や怒りや欲望に溺れて死ぬのでは・・・。
人間としての一生を、宇宙の次元、輪廻の次元からみるならば、1 分たりとも人生を無駄にはできないはずだ。
そんな余裕はないのである。
人間に生まれることは、類い稀なるチャンスだから、世の中の風潮に流されて生きるのではなく、人生とは何かをしっかりと考えるべきだ。
いかに生きればいいのか、と観察して生きなければならないのだ。
ブッダ(お釈迦さんのこと)は「生まれたものの目的とは、解脱することである」とはっきり述べている。
人間の天職、本職は解脱することにあるべきだ、それに挑戦するより他に、生きることには何の意味もないのだ、と。
解脱することが現代人に理解できなければ、少なくとも人格の向上を目指すべきだろう。
ごく普通のどこにでもいるような人間(ひどい)よりは、かなり優れた精神をもつ人間になってみる。
まったく罪を犯さない人間になるという、それくらいのことでも頑張ってみてはどうだろうか。
現代の社会では、子育てや教育には大変なお金がかかり、家族ぐるみで必死に子供の面倒を見なければならない。
会社に入れば、それこそ一生をかけて働かなければならないし、コンビニでアルバイトの仕事をするだけでも、他には何もできないほどに時間をとられてしまう。
もう、仕事がやりきれない程に膨大で、現代人にはまったく暇がなくなっているのである。
これは極端に無知な生き方だ。
1日、4、5 時間も寝る暇さえなく、頑張っている。しかし、くだらないことに頑張っているだけなのだ(ひどい)。死んでしまえば、何の意味もないことだ。そんな雑事(ひどい)は淡々と済ませ、「本職」に取り組むべきだ。
はっきり言えば、人間の生き方はまったく無駄だ。後でだれしもが口をそろえて言うのは、「暇がなかった」という言い訳だ。
では暇がないほどに何をやってきたのかと振り返れば、誰にでもできる無駄なことばかりだ(ひどい)。
例えば、幼稚園では 1 年に 1 回、子供達のお遊戯会がある。その日は親達が 1 日がかりで苦労をしなければならない。家族みんなで準備をして、朝早くから夕方まで何をやっているかといえば、別に何もやっていない。わざと人生をややこしくして、大切な時間を失うだけだ。しかも有益な結果を何も生み出さない生き方だ(ちょっと・・・)。
私達はよく口癖のように「今度生まれ変わったら何々をするぞ」と言うが、そう簡単には人間には生まれ変われないのだ。そんなチャンスはないのである(?)。
今、世界はどんどん貧乏になっていって、人々は子供を作らなくなっている。人間に生まれるチャンスはほとんどない。
稀に人間に生まれ変わっても、みんな無駄な仕事に追いかけられて、惨めで無知な生き方をしている。そう楽には、生きていられないのだ。やっと生きているのが精一杯で、それにも満足はできない。いくら苦労をして生きてみても、満足感が全然得られないのである。
一生をかけて科学を研究しても「これでもう大成功。立派な知識人になりました」とは言えない。やっと何とか論文を出すだけ。
人間に生まれることは、こんなにも珍しいことなのに、生命とは何かと、本格的な真理を聞くチャンスはほとんどないのである。
ましてや、真理とは何かなどと探す余裕などない。ただ自分の食べ物を探すことと、次の世代を育てることで一生かかってしまうから。それで人生は終わってしまうのだ。
だから世の中では真理を探求することは稀で、やみくもな信仰ばかりしている。どこかの神を信じるとか、お祈りをするとか、その程度で終わってしまうのだ。
「真理なんて考える必要はない。信仰をすればいいのだ。だって食べ物を探すのに忙しいのだから」と。
そういう世界だから、真理を聞くチャンスはほとんどない。
真理を聞く人は、もう、一 千万人に一人か二人というくらい、人間の中でも珍しい存在なのだ。
人間に生まれることは稀である。その中で真理を知ろうとする人は、もっと稀な存在である。
そして、それよりも、さらに稀で難しいのは、ブッダがあらわれることなのだ。
ブッダは、誰も真理を知らない世界にあって、自分一人で真理を発見した人なのだ。
人生のちょっとしたヒントも与えることができないこの世界にあって、一人で真理を発見したのである。
それはきわめて珍しく難しいことだ。
時間的にみても、阿僧祇劫(あそうぎこう)に一人だけ。
いくつもの宇宙がまるごと生まれては消えていく膨大な時間の中で、たった一人だけがあらわれると言われている。
目を覚まして考えれば、今がそのブッダがあらわれた時代なのだ。
ブッダは亡くなったが、その教えが生きている時代なのだ。
しかも、自分は人間に生まれている。だから、真理を見つけるならば、今、この時、このチャンスだけしかない、ということ。
この瞬間、自分にとって一番大切なことは何かを知って、必死に頑張るのです。
それは「心を清らかにする」ことなのです。
とのこと。
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・未曾有~みぞう~(未(いま)だ曾(かつ)て有(あ)らずの意)昔から今までに、一度もないこと。みぞうう。
・阿僧祇劫~あそうぎこう~ (「劫」はきわめて長い時間の意) 仏教語。無限に長い時間。
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追記: 2021/06/26 15:33 〜訂正内容〜
注釈を加筆・訂正しました。