第 4 週 人格の完成をめざす
6 人生にグッドタイミングはあり得ない
飢えることは、最悪の病である。
現象(サンカーラ)は最悪の苦しみである。
このことをあるがままに知る(人にとって)、
涅槃(ニッバーナ)は最高の幸福である。
(二〇三) (第15章 幸せ より)
勝手に書きます。
その前に、お断りがあります。
都合により、過去の記事の内で、雑感と題して通し番号をつけて書いてあったものを、独自の表題をつけたものに変更することにしました。
ただ、今までに雑感と題した記事は、全部で 27 個あるので、いっぺんにすべてのものの更新をせずに、5 個ずつ更新をしていきます。
更新の通知がバタバタとして、読者となられておられる方々には、大変なご迷惑をおかけして申し訳ありませんが、何卒、お許し下さりますようお願い申し上げます。
では。
S さん( スリランカ仏教界のアルボムッレ・スマナサーラ長老 )のお書きになっていることを、私なりの意訳を加えて、きわめておおざっぱまとめてみると。
あらゆる生命には、その寿命のある限りは、生命維持のために栄養の補給が必要だ。
あらゆる栄養分を採り入れて、消化・吸収し、不要なものは排泄物として、体外に出している。
この寿命が尽きるまで、栄養補給から排泄までの一連の過程を繰り返すことになる。
従って、栄養分の補給は、生命として生きていく以上は、どうしても避けることのできないものとなる。
だから、これが個々で必要とする水準を満たすことができないと、渇きという飢えを感じることになる。
しかも、この栄養分には、大別して、物質的な体の栄養分と精神的な心の栄養分の2つのものがある。
そして、心の栄養分は、3 つに分かれる。
1.情報に触れる(感じる)
2.意志
3.心そのもの(の生滅)
の 3 つである。
とにかく、私達は、特に現代では、生活に必要最小限の栄養分だけではなくて、あれこれと、栄養分を増やしたがる、五感にまつわる欲望を満たそうとするので、どうしても、体と心、ともに栄養分は不足しがちになるのが常態となっている。
だから、S さんは、人間はあまり自慢できる生き方をしておらず、栄養分を探すことに追われて、常に飢えている、としているのだろう。
これに、執着しない、つまり、苦しみを感じないようにするためには、悟りを開くことが手っ取り早いのですが、残念なことに、これは到底一般的とは言えず、ほぼ不可能です。
従って、次善のやり方として考えられるのは、霊性を徐々に開発しながら、生活に必要最小限の栄養分で満足できるような人格に、ほんの少しでも近づけていくように、あまり、欲をかいて贅沢をし過ぎないように、心のあり方を変えていくことですね。
それが、まずは、飢えを抑えていくための出発点になるように思います。
ただ、世の中は広いし、様々な因縁の人が多種多様にいる(たくさん稼いで経済を回す役割の人など)ので、一概には言えませんが、基本線は、上記のようになります。
霊性の開発が、まだまだ不十分な段階では、これが少しでも飢えを少なくするやり方だと考えます。
次に、現象が苦しみだと言うのは、要するに、世の中が万物流転、諸行無常を完全に感得できないと、どうしてもあらゆるもに、何かしらの執着を抱くことが避けられずに、悩み、悲しみ、苦しむことから逃れることができないことを指していますね。
(神様以外の)あらゆるものが万物流転をして、諸行無常であることを感得するのは、悟りを得ることでしか、なし得ないこと。
従って、悟りを得る=涅槃の境地に達することで、万物流転、諸行無常を感得し、悩み、悲しみ、などの迷いから解き放たれて、心安らかな境地にいられるようになる。
これらの経文の意味するところは、おおよそ、こんな感じだと思います。
要は、悟ること=涅槃の境地に達することが、いかに、(肉体)人間にとって心安らかに生きるためには、大事なことなのかを、示唆している経文ということになるのでしょう。
ただ、S さんの、「現象の世界にいる限り、グッドタイミングは絶対にあり得ない、というのがブッダ(お釈迦さんのこと)の教え」だ、というのは、今一つピンとこないなあ。
何か、よくわかりません。
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・示唆~しさ~他の物事やヒントなることを与えて、それとなく教え示すこと。
(用例)示唆に富む。