おぶなより

世界平和の祈りに寄せて

427_法悟28-27-1

第 4 週 人格の完成をめざす

6 人生にグッドタイミングはあり得ない

飢えることは、最悪の病である。
現象(サンカーラ)は最悪の苦しみである。
このことをあるがままに知る(人にとって)、
涅槃(ニッバーナ)は最高の幸福である。

(二〇三) (第15章 幸せ より)

適当に書きます。

ブッダ(お釈迦さんのこと)は、病気の中で最も恐ろしいものは「飢えと空腹感」であると言う。

これが病気なのか? と思う人がいるかもしれないが、ブッダの言葉だから、真剣に考えてみよう。

私達は、心臓病をはじめ様々な病気をこわがるが、本当に恐ろしいのは、空腹だとしている訳だ。

なぜか。 

まずは、飢えは確実に命取りになることがある。たとえ、かなり重い病気になったとしても、必ずしも死ぬという訳ではない。治療をすれば助かる。しかし、食料がなくなれば、必ず死にいたることになるからである。

もう一つは、病気には根治療法があるが、飢えと空腹感には完全な治療法がないからである。

私達は死ぬまでずっと食事を採(と)らなければならないし、死を免れるためには、食事を採るという形で、一時的な対症療法でしのいでいくしか、術(すべ)がないからである。

ブッダは、このような理由で、飢えと空腹感は、一番最悪で、最大な病であるとしているのだ。

現代の医学的な定義はさておき、もう少し事実を見ていこう。人間を始めとする生命を観察すると、皆、何らかの形で栄養を採らなくては生きていけないことがわかる。仏教の経典にも、すべての生命は栄養を採るという言葉が載っている。

ただし、その栄養は、個々の生命によって異なっている。同じ食料でも、牛、ライオン、人間もまったく違う。生命はそれぞれの体の構造に適した栄養を採る必要があるのだ。

仏教においては、もし神々(天)に生まれても栄養を採らなければいけないし、その神々よりも高級な梵天(ぼんてん)に生まれても、また何らかの形で栄養を採らなければいけないとされている。すべての生命は、ことごとく、栄養なしには生き続けることができないのである。

仏教で栄養とされるものは、大きく分けて2つある。体の栄養と心の栄養だ。

人間や動物のように肉体をもっている生命は、物質的な栄養を採らなければ体が壊れてしまう。

しかし、生命はそれだけではなく、心にも栄養を必要としているのである。

心の栄養には 3 種類ある。
「情報に触れる(感じる)こと」、
「意志」、
「心そのもの(の生滅)」
の 3 つだ。

これらはどこにでもあり、心はとどまることなく栄養を摂り続けている。

心は、まずは情報に触れることを栄養にする。情報とは耳目(じもく)にとらえられるものだ。それが受け入れやすいものであれば、心は楽しみを感じる。逆に、受け入れたくないものが見えたり聞こえたり触れたりすると、とても嫌な気分になり、心は落ち込んでしまう。

意志も同様だ。自分に悪い意志があれば、心は汚れた栄養を採ることになり、苦しいものに変わってしまう。これとは反対に、心に清らかな意志があれば、心は清らかな栄養を採って善い心に変わる。

では、もう一つの心そのもの(の生滅)とはどういう意味か。仏教の生滅変化論では、今、この瞬間に心がなくなる(滅する)ことが原因となり、次の心が生まれると説明している。

過去の瞬間の心がなくなることがエネルギーとなって、次の心が生まれるのだ。

心が一つ死んで、別の心が一つ生まれる。その心がまた死んで、さらに別の心が生まれる。その心が死んで、また別の心が一つ生まれる・・・。

そうして、死ぬ心の状態によって、次に生まれる心の状態がきまるのだが、その働きも心の栄養だと言っているのだ。

心の栄養の仕組みは複雑で説明が難しいのだが、仏教では非常に大きな問題として扱っている。

皆さんが心配している物質的な栄養は、それに比べれば単純明快だ。それぞれの生命は自らの体に適した栄養を採っている程度のことだからだ。とにかく、栄養がないと生命は維持することはできない。

生命のすべては必死に活動して生きている。しかし、よくよく観察すると、栄養を採るために必死になっているだけなのだ。

人間は、体を維持するために、まずは食べ物を探す。それから、マッサージを受けたいとか、おしゃれをしたいとか思うのだが、これらは肉体に触れる情報を欲しているのである。これらがないと、楽しくないし、生き甲斐も感じられない。それから、映画を見たり、コンサートで音楽を聴いたり、旅行に出かけたりもする訳だ。

仏教の視点から見ると、これらを含めた人間のする一切の行動は、「ただ栄養(食べ物)を探している」行為に過ぎないのである。

これは、人間の生き方を見ればよくわかる。他の生命を見ても同様だ。同じことをしている。

その生涯を栄養を探すことに忙しくさせられて、それには終わりがない。常に飢えているのである。だから、人間はあまり自慢できない生き方をしていると言えるだろう(?)。必死に栄養を探すことに追われ、他のことをするヒマがないのである。

ブッダは、このような意味合いも含めて「最大の病は飢えることである」と言ったのだ。

次に「現象は最悪の苦しみである」の意味を考えてみよう。人間は、今現在、自分が味わっている苦しみを最悪だと感じるものだ。そして、次の苦しみに直面すると、前の苦しみの方がマシだったと思うものなのだ。

皆さんにとって、一番大きな苦しみとは何だろうか。ケガをする、子供に先立たれる、職を失う・・・。答えは人それぞれに異なるだろう。つまり、これといって、決まった答えはないのだ。どれも苦しく嫌なものだが、一番嫌なものは何かは、誰も答えることができないものなのだ。

私達は、最大の苦しみが何かをわからずに、ほんの些細(ささい)な苦しみに直面しただけで、立ち直れないほど、精神的に落ち込んでしまうことがある。それは、自分の今出逢った苦しみこそが、人生最大の苦しみだと思い込んでいるからだ。

病気になる、親友を亡くす、仕事をクビになる、といった自らの体験こそが、「人類(?人生の書き間違いではなかろうか?)最大の苦しみだ」と思い込むと、もう立ち直りようがない訳だ。人生はダメになってしまう。だから、私達は、日常の苦しみに打ちのめされ、これが人生最悪の苦しみだなどとは、決して思ってはならないのである。

そこで、ブッダは「現象は諸々の苦しみの中で最悪である」と教えているのだ。物事はすべて合成されてあらわれる現象であり、必ず壊れるものだ。

私達は、この壊れるということが、たまらなく嫌なのである。

私達自身も合成される現象であって、その身も常に変わって壊れていく。今の現象に生き方を合わせようにも、次の瞬間にはもうその自分が変化しているのだ。だから、また頑張って合わせるようにしなければならなくなる。しかし、いくらやってもうまくいかないので、ストレスがたまったり、嫌な気持ちになったりする訳だ。

あなたが二十歳の時に「ああなりたい、こうなりたい」といろんな計画を立てるとする。その計画がその時々ですべてつつがなく実現する場合には、何の問題もない。いい仕事を得たい、かわいい女性・頼り甲斐のある男性と結婚をしたい、というのなら、その時点ですべてが計画通りに実現できればよい。

問題は、それらが実現した次の瞬間から、もうあなた自身が刻々と変化しはじめてしまっている、ということなのだ。

二十歳の時に憧れた仕事にようやく就(つ)けた時には、もう二十八歳になってしまっている可能性もある。その二十八歳の時には、また別の仕事に魅力を感じるようになる可能性もあるのだ。

二十歳の男女が互いに強く惹(ひ)かれ合い、結婚できたら最高に幸せだと感じていたとする。しかし、十年経って実際に二人が結婚できた時には、お互いに歳をとったので、二十歳の時に夢見たようなトキメキも幸福感も感じることはできなくなっているかもしれない。

人間にとって、私という存在は、一つの現象にしか過ぎない。それは刻々と変わっていくので、今の自分に合わせて計画を立てても、自分が思い描いた状況に落ち着くことは少ない訳だ。

こうして、人生はずっとうまくいかないまま、期待通りにはならないという気持ちをいつでも抱えるハメになるのである。これが現象という最大の苦しみなのだ。

このように、いくら人生を頑張ってみても、決してうまくはいかない(?)。そんなことはないのだ、と否定してみても、真理の世界からみると、決してうまく行っているとは言えないのである。

たった今、自分がいいと思っていても、次の瞬間には、別の思いを抱いた「別の自分」が存在してしまう。自分は絶えず変化していくから、いつも「新しい自分」がその時々の周辺の環境に適応していかなければならない。

しかし、適応しようとしたところで、または自分が新しく変わっているから、延々とうまくいかない状態が続いてしまうことになるのである。

こうして客観的に事実を見てくると、人間は将来に対する確固たる知識はないし、知ることもできないし、完璧な計画を立てることも不可能だということがわかるだろう。

だから、人生はなかなかうまくはいかないものなのである。なぜならは、人生は無常であり、自分という現象は刻々と変わっていくものだからだ。

そうすると、今度は自分以外が周辺の環境は変わらないのか、という疑問がわいてくる。残念なことに、周辺の環境も刻々と変わっていってしまうものなのである。

例えば、大学 2 年生の男子が、将来的にソフトウェアの開発者になりたいと勉強していたとする。それはかつては多くの若者にとっては、収入のよい花形の職業だった。しかし、彼が大学を卒業してソフトウェア開発に必要な訓練を受ける頃になると、社会情勢は変わってしまい、ソフトウェアの開発者になっても、仕事がなく収入が得られない、という事態になることもあり得るのだ。

今、いろんな計画を立てて、将来的に実行しようと準備しても、結果的に対応ができず、困ることになる可能性も十分にある。逆に、今の自分てはなく、5 年先の自分を見据えて、「こうなったらいいな」と計画を立てても、5 年もすれば、自らを取り巻いていた周辺環境も変わってしまう。そうすると「ああ、しまった」となってしまうのである。

このように、あらゆる生命にとって、一生涯つきまとう現象こそ、最大の苦なのである。しかし、現象の世界に執着を抱いていても意味がないと気づくことができれば、自ずと道は開けてくる。

現象のシステム(?)から脱出するしか選択肢はないのだ。涅槃(ねはん)を体験して、現象のシステムから脱出することだ。

だから、ブッダは「涅槃は最高の幸福である」と説いたのだ。

今の瞬間にピッタリと当てはまる計画は、楽しいものだ。とてもお腹が空(す)いている時に、ご馳走が目の前にある。ならば、時間的にもピッタリだろう。グッドタイミングという言葉があるように、その時は喜びも一入(ひとしお)で本当に楽しいものなのだ。しかし、現象の世界にいる限り、グッドタイミングは絶対にあり得ない、というのがブッダの教えなのである。

とのこと。

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・一入~ひとしお~①染め物を一回染め汁に漬けること。
②ひときわ。いっそう。
(用例)一入身にしみる。感激も一入だ。
ここでは、②の意。

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追記: 2021/07/06 23:12 〜訂正内容〜

本文を訂正しました。