おぶなより

世界平和の祈りに寄せて

410_法悟28-21-1

第 3 週 賢者の道を歩む

7 快楽ではなく智慧を探し求めよう

なぜ笑う。何が楽しい。
炎に包まれている(燃えている)のに。
暗やみに覆われているのに。
なぜ光を求めないのか。

(一四六) (第11章 老い より)

適当にやります。

ただ、今までは S さんの書かれている疑問に思うところに疑問符(?)をつけてきましたが、今回はあまりにもそうした点が多いので、疑問符を全部省きました。

理屈の展開にしても、個々の文章の意味にしても、何を言っているのかわからないものがいくつもあり、自己流に頭の中でうまく翻訳と整理ができません。

今まで S さんの本を見てきて、こんなことは初めてです。

まあ、私の元々の能力不足から致し方ないことなのかも知れませんが。

とにかく、読まれる場合にはこの方(=疑問符なし)が外観もスッキリしていて読みやすいでしょうから、いいとは思いますけれど・・・。

やっぱり、荀子性悪説と、人は誰しもが悟りを開ける、つまり、神性(=仏性)があることを同居させて、どうにも話が一貫していないように見えるんだけど・・・。

まあ、いいや。

では。

私達は絶えず「何をして遊ぼうか、何をして笑おうか、何をして楽しもうか」という衝動に駆られて生きている。

これは子供の生き方を見ているとよくわかる。子供はいつも「今日は何をして遊ぼうか」とばかり考えている。いわば、それが子供の人生哲学(!)なのだが、実際には私達が成長して死ぬまでにその哲学は変わらないのだ。

私達は周囲から何を言われても、「何をして遊ぼうか」という哲学で生きているのである。ただ、大人になるにつれて当然に社会的な義務や責任が出てくるので、仕事をして、家族を守らなければならないだけだ。

やむを得ず遊ぶヒマがなくなるだけのことであって、子供時代からの哲学が変わった訳ではないのである。

だから、人は機会さえあれば、誰とでも遊ぶし、楽しもうともする。それが人間の生き方なのである。

これについてブッダ(お釈迦さんのこと)は、「あなたは何をして笑っているのか」と指摘するのである。

この世の中で、笑うものは何もないのだ。泣けるものなら、たくさんあるが・・・。

人の日常生活にはいろいろな笑い話があるが、わざわざ人を笑わせるために、ありのままの現実(自然)や法則をねじ曲げたものといったナンセンスであり得ない話がつくられるばかりだ。

しかも、それが何の意味もないものほど笑ってしまうのだ。楽しむ場合も自然のままでは楽しめないのだ。何かふざけたおかしいことをしないと。

ここまでで、2 つの論理が出てきた。

1 つは、人間は生まれてから死ぬまで、その哲学は「何をして遊ぶか」ということ。

2 つ目は、遊びというものが、「ありのままの事実ではなく、それに逆らったふざけによって楽しむ」ということだ。

例えば、女性がヒゲをつけたり、その反対に、男性が女装をして踊れば、みんなが愉快に楽しめる。倒錯や、ゴマカシを用いて、事実をねじ曲げて楽しむ訳だ。

世の中の出来事をそのままその通りに語っても、誰も笑えない。

その反対に、とんでもないことや、あり得ないことを、いきなり言われると、大笑いをしてしまう。

ありのままの事実では、笑うことができないのである。

ここで考えるべきは、笑って楽しめることならば、何でも事実や法則をねじ曲げることが許されるものであろうか、ということ。

実は、ここには危険な要素が潜んでいるのだ。

例えば、イジメや盗みで、自らを喜ばせるような人がいるからだ。

こんな類いの行為が正当化されたら、世の中はどうなってしまうのだろうか。

みんなが無知になり終わってしまうのだ(意味がよくわかりません)。

ありのままの事実は見えなくなって、社会の秩序が乱れてしまうのである。

隣国を侵略して領土を奪おうが、そこで財産を盗んで遊ぼうが、「これの何が悪い?」となってしまうからだ。

極論に聞こえるかもしれないが、こうした事実は世の中ですべて起きていることなのだ。

遊びは悪くない、楽しめるなら何でもいい、などという人としてのあり方は、絶対にあってはならないことなのだ。

それでは、愚者の道を歩むことになってしまう。

この場合には、私達が生まれつき持っている哲学(!!!)を変えなければならない。

何をして遊ぶかではなく、人として「生きるとはどういうことなのか」を直視する必要があるのだ。

人として、常に何をして遊ぶか、という衝動に駆られるのは私(= S さんのこと)にはわかる。それは決して自分で育てた気持ちではなく、無知である人間にそなわっている感情だからだ。

人間にとって生きることは、そもそも生きることが大変なことだから、遊びたくなるのである。

本来、人間が生きることは、そもそもそもが面白くないから、おかしいことをして楽しもうともするのだ。

これが人間の判断ミスなのである(何を言っているのか意味がわかりません)。

生きることがまったく面白くないのであれば、人は生きることに執着などはしない。

人生を楽しむために事実をねじ曲げておかしなことをするというやり方は、仏教では認めていない。

元から面白くないものには執着する必要はないのだ。

だからブッダは、常に自然の法則を変えずに、理性的な答えを私達に示しているのだ。

自然の法則の中で生きるのは、私達にとっては面白くないし、大変苦しいものである。

人生は苦しみに満ちているのが普通だから、「どうすれば生きることに執着することができるか」と考えること自体が間違いなのだ。だから、やるべきことは、「もう、いいや」と執着を捨てることだ(意味不明。訳がわかりません)。

私達が楽しい、面白いと思うことは、すべて人生そのものをごまかすことだ。化粧をしたり、おしゃれをするのと同様に、ごまかすことなのである。

おしゃれをして楽しいのは、本来の自分の姿を隠すことだ。漫才を聞いて笑っているということは、本当の事実ではない話を聞いて喜んでいるのだ。

だから、ブッダは私達に厳しく問いかける。「何に笑うのか」「何が面白いのか」と。

そして「すべては燃えているのに」とまで言っている。

つまり、ブッダは、あなた方は、燃え盛る炎の真っ只中にいるのに、何が面白いのか、と問い質(ただ)しているのである。

人は生きていれば毎日次第に歳を取っていく。それなのに、日増しに果たすべき責任や義務は増えていく。仮にそれらを皆果たせたとしても、年老いて病気になって、最後にはくたびれ果てて死んでいく。

それでもまだ生に執着があるから、輪廻転生をして生まれ変わってくる。そんな人生を歩んでいるのに「何が面白いのか。あなた方はまさに暗黒にいる。執着を捨てなさい」とブッダは言っている訳だ。

楽しみを探してばかりいると、人は完全な無知になる。だから、楽しみを探すのではなくて、人生とは何かの答えを探すことだ。

具体的に生きることの意味を探すのだ。

人生は何をしても楽しくはならない。しかし、人生の意味を見つけることができれば、心は穏やかになる。執着を無くしたら、もう完全に平安な心が生まれてくる。仏教とはそういう教えなのである。

楽しみだけを追い求めて生活すると、結局はすべてがアベコベになる。理性にもとづいて生きることができなくなるのだ。

いくつか例を挙げてみよう。

賭け事はスリルがあって楽しいので、大金をつぎ込んでしまいがちだ。

たとえ勝負に負けて金を失っても、次こそはといつかは元手を全部取り戻せると思い込み、一攫千金を狙っているからだ。

しかし、実際にするのは損ばかりだ。

どんなに気分が良くなるからと言っても、麻薬に手を出せば確実に自己を破壊する。

飲酒も同じことだ。いくら酒が好きでも、依存してしまえば、何もかも失ってしまう。

異性との遊びか楽しいからと、異性を追い求めてばかりいれば、やはり何もかも失ってしまう。

従って、どうやっても楽しみを追い求める道が正しいということにはならないのである。

それでも「いや、そうは言っても・・・」という人がいるかもしれない。

ならば聞こう。

楽しみを追い求めるのが正しいものならば、なぜ大人は子供にそれをさせないのか。子供はは遊びたいと正直に言っているのに。だったら、遊ばせてあげるべきだろう。

なぜ子供には悪いことが大人にはいいことになるのだろうか。それは、子供を自由に遊ばせてばかりいたら、人生がどうなるかを私達大人が知っているからだ。人生は甘くない、厳しいのだということを。

よって、私達は常に楽しみを追い求めるのではなくて、いつでも充実感を持って満足できる人生を歩むことが大切なのだ。

ただひたすらに、淡々とやるべきことをやっていれば、さほど苦しみは感じないばかりか、何をして遊ぶかなどという余計なことを心配せずに済む。

仕事を終えた時に、何をして遊ぼうかと考えるのは、それまでの仕事がいかに辛かったかということに他ならない。仕事に充実感があればこうはならないはずだ。何をして遊ぼうかなどという発想は出てこないはずなのである。

生き方を間違えている私達に、ブッダは「光を求めなさい」と言う。これは「智慧を求めなさい」ということを意味している。

これは、何のトラブルも起こさず、破壊にいたらず、生きる方法なのである。

楽しみだけを求める世界は、破壊的な道だ。それはあたかもテロリストが「自爆テロを実行すれば、自分達には天国で特等席が用意されている」とそそのかされて死んでいくようなものである。そのように、自分も周りも破壊してしまうのだ。

テロリストといえども「人を殺したら地獄に落ちますよ。怒りや憎しみだけで行動したら、さらに怒りと憎しみが増すだけです。自分を守るどころか、さらに大勢の人々を危険にさらしますよ」と言われたら、誰も自爆テロなどやらないだろう。しかし、現実には自爆テロが次々と起きている。

これも、やはり「この世で楽しめなかったから、今度は天国で楽しんでやるぞ」と楽しみを求めているからだ。その本質は、私達の日常生活と同じなのである。

私達は「生きるとは何か」という智慧を探す道を歩むべきである。

現代がそれなりに物質的な豊かさを享受できているのは、先達が智慧を探してきたからだ。自然の謎に迫り、地球の秘密を解き明かし、科学が発展して、私達はそれなりに便利で快適な生活をできるようになり、自由を得てきた。

そうならなければ、おかしな宗教に奴隷化させられただけだっただろう。だから、自由と幸福を求めるならば、知識と智慧の道を進むしかないのは、科学の世界でも証明されている。

これはどんなに否定したくとも、誰にも否定できないことだ。事実には逆らえないのである。

どんな愚かな人間であっても、何が楽しいか、何が面白いか、くらいのことは考える。それは子供と何も変わらない。だから、やはり、生きるとは何か、を智慧を探るべきなのだ。

そうすれば、何事もやる気が出てくるし、やることもたくさん出てくることになるだろう。

しかも、誰かしらと対抗する必要もないのである。だから、智慧を探る道を選びなさい、とブッダは言っているのである。そうすれば、お互いにケンカをするヒマもなくなるのである。

とのこと。

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追記: 2021/06/22 23:33 〜訂正内容〜

本文を訂正しました。