おぶなより

世界平和の祈りに寄せて

557_仏言葉ー089 ー 煩悩の克服

第 6 章 心が晴れるためには

89.「塊」としての煩悩

(欲情の)一本の樹ではなく、林を刈れ。
危険は(欲情の)林から生じる。
(欲情の)林と下草とを刈り
(欲情の)林を離れた人となれ、出家修行者よ。

(ダンマパダ)
(二八三) (第20章 道 より)

佐々木さんによると、
これは私達の心にはたくさんの悪い要素がある、という自覚が必要だ、と言っているものだそうだ。

この今枝さんの訳にある下草(したくさ)は、中村さんの本の注釈では、下生え(しもばえ。普通の読みは、したばえ)となっていて、しかも、解釈が二通りもあり、比喩としての意味もきわめて煩瑣で区別しづらく、わかりにくい(詳細は割愛します)。

なので。

ここでは、あまり意味を深くとらえずに、林を欲情あるいは欲望の全体、下草(下生え)をその一部くらいにとらえる程度でよいと思われる。

(悟りを得ていない)肉体人間の欲望は、広く深いものなので、それに伴って、心身を悩ます一切の妄念である煩悩も当然に広くて深い。

その欲望の一部を抑えたところで、到底、欲望全体を抑えるには程遠い。

この経文で危険と書かかれている(中村さんの訳も同じ)のは、それだけ欲望の全体が広く深く、生半可な心構えでは御し難い厄介な性質を持っていると解釈できる。

という訳で、欲望全体を制御する、さらには、欲望全体への執着を断ち切って、欲望から生じる煩悩を離れるためには、その一部だけを抑えたり、
同じくその一部だけを断ち切るだけでは、
到底、不十分ということになる。

やはり、修行によって悟りを開き、
煩悩の炎を完全に鎮火させることが必要だ、
と考えられる。

こうしたことから、(主語がないが、多分お釈迦さんは)お弟子さん達に、
すべての欲望から離れ煩悩を克服する、
すなわち、
修行により悟りを開いて涅槃の境地を目指しなさい、
としている経文だと思われます。