佐々木さんの初期仏教の経文に対する代替訳が見つからず、保留としておいたものについては、とりあえず、すべて更新は終えた。
ただ、今一つ、以前( 488_仏言葉ー022 ー 八支の道を行こう )で、別に書くようにしておいたものがあるので、これを書こうと思う。
これには、2 つあるので何回になるか、 2 回で間に合うかわからないが、とにかく分けることにする。
1.自己中心の考えを捨てて無我を悟ることの意味合いについて
488_仏言葉ー022 ー 八支の道を行こう
22.争いをなくす方法
物事を正しく見るための道
それはこの道であり、他にはない。
この道を歩め。
これこそ悪魔を挫(くじ)く道である。
(二七四) (第20章 道 より)
(ダンマパダ)
佐々木さんは、ここでの悪魔を、世の中の様々な争い事を指していて、これから逃れる唯一の方法が「自己中心の考えを捨てて無我を悟る」ことだとしている。
要は、人として(お釈迦さんの指し示すような)正しい生き方をするためには、世の中の物事を正しく見る目を培(つちか)う必要があり、この指針となるものが、八支の道(八正道)であり、これに沿って生きていくことがまずは必要とされ、そのためには、自己中心の考え方を捨てて無我を悟ることが結果としてやるべきことになる、という意味合いに読み取れる(長くてすみません)。
いつものように、私流に解釈し直しますが、ご了承願います。
かなり荒れるかもしれませんが、これもあらかじめご承知置き下さい。
まずは、八支の道(八正道)は、置いておく。
いきなり何だ、と思われる方もおられるかもしれないが、考えても見て下さい。
正しいとされるところの、
物の見方(正見)、
考え(正思)、
言葉(正語)、
行い(正業)、
日常生活(正命)、
努力(正精進)、
落ち着いた注意深さ(正念)、
精神統一(正定)、
生き方を、生活態度のあり方(精神統一は除く)を、何でこんなにわざわざ細分化して考える必要があるのか。
言葉や行いがいい例だ。
言葉や行いの前には、想いがある。
正しい想いがあってこその、正しい言葉や行いだ。
こうしたものはその多くが表裏一体だ。
いちいち分析して考えながら選択するものではない。
実際になされる時間はわずか一瞬、瞬間がほとんどだ。
半ば渾然一体となってなされるのが実情のはずだ。(*1)
分析は、後からすれば、結果的にそうなっていることがわかるのであって、人間は、こんなものをいちいち分析しながら為(な)したりはしない。
しかもだ。
「正しい」とは一体何を指しているのだ?
これでは、「正しい」のあり方一つによっては、生き方の方向を誤る可能性大なのではないか。
たった一つの誤った託宣のようなもののために、世の中が乱れる可能性すら生じてくる可能性があることになるよ、これでは。
正しいことの内容を明らかにはせず、しかも、人々のあらゆる行いをわざわざ中断させる(ストップをかける)ような話を持ち出す。
繰り返しますが、人間は、あらゆる行いを突き詰めて考えながら行わないことが大半です。
だから、実際にはある程度行ってしまった後に、正しいとされるあり方を日々考え省みて、少しずつ直していくよりやりようがありません。
そのために、ああしたものを一応、頭の片隅にいれるように、日々、徹底的に頭に叩き込んで、ようやく日頃の行いに反映されてくる。
これが、実際になると思いますよ。
つまり。
何らかの競技をしているとして、日々、反省と試行錯誤を繰り返しながら、その技術の向上に、いそしんでいく。
要は、八支の道(八正道)は、そうした自己研鑽のための参考指標ってことではないですか。
それなら、わかりますよ。
ただ、八支の道(八正道)を大上段に掲げて、ああでもない、こうでもない、とやっているのは、どうなんですかねえ。
私には理解が難しい。
という訳で、勝手に書かせてもらいます。
何が正しいのか。
これは、何が神様のみ心に沿ったものかに、置き換えられる。
私達肉体人間は、神様の分け命を本質としているために、それなりの善悪邪正の判断能力を授かっている。
つまり、自然にわかる訳です。
ああだこうだ、いちいち、小難しい理屈をつけたり、なんだかんだ分析しなくても、スッとわかる。
これが本来のはずです
まれには、因業人間のように、あるいは、サイコパスのように、過去世からたまっている悪い因縁が深くて深くて深くて、判断能力をかなり曇らされている人間もいるかもしれないが、ごく普通は違う(とは言うものの、彼らも肉体人間である以上、その深層意識には神意識があり、幽体もある。だから、していることの意味は深層意識では理解できているし、悪い行いは輪廻転生を通して漏れなく償わされることには変わりがない)。
こうした肉体人間を前提として、佐々木さんの言う「自己中心の考えを捨てて無我を悟る」をとらえなおしていきます。
自己中心の考えとは、自己を肉体人間の自分を生かしている神様の命とする、つまり、人間の本質を神様の分け命とするのではなくて、あくまでも、目に見える、手で触れることのできる、臭いを嗅ぐことができる、この肉体人間とすることです。
このように考えた場合、この肉体人間中心の考えとは、この肉体人間たる自分とそのごく近しい者だけの利害得失計算だけを考え、その利益を最大化させること、を意味することになります。
では、この自己中心の考えを捨てるとは、どういうことになるのか。
自分とその近しい者だけの利害得失計算の利益を最大化させることをやめる、となりますね。
では、これは具体的には、どうすればいいのか。
ごく簡単に言ってしまえば、調和をはかることによって、皆の幸せに尽くすこと、安寧な世界の実現に向けて少しでも貢献することですね。
自己中心に生きるのは、自分のために尽くすこと。
他人中心に生きるのは、他人のために尽くすこと。
いずれに片寄りすぎても、生き方に無理が生じたり、周囲との軋轢を生じたりして、調和は望めないことが多くなる。
自己と他人の調和をはかり、みんなのために尽くすこと。
では、なぜ、みんなのために尽くすのか?
他人になんか尽くす必要などない。
他人の多くは利害関係の対立する、様々に奪うべき敵だ。
自分さえ、富んで、安楽になれさえすればいいんだ。
他人様は、そのおこぼれ(?)程度で構わない。
と考えがちなのが、この火宅の世での考え方じゃないですかね。
それなのに、なぜ?
それは、肉体人間は、自分で生きているものではなく、神様の分け命によって生かされている者、すなわち、みんな、神様のお命を分けて頂いている、本質的には神様の子供となる兄弟姉妹だからです。
現実のこの世では、各人各様に溜まりに溜まった過去世からの悪い因縁のために、みんな分け隔てられて、別の人間のようにあらわれていても、本質は一つだからです。
だから、自分のためにもなり、他人のためにもなり、ひいては、全体の調和に少しでも貢献すること。
これが大事だ、ということになる。
それには、自分や他人、つまり、みんなが神様の子供であり、生かされているということのみならず、私達がこの世で生きていくための必要な周辺環境として与えられているもの、ありとあらゆるものは、どなたがお与えになったかに、想いを馳せなければなりません。
しかも、こうしたあらゆる資源は無償なんです。(*2)
神様しかないですね。
神様が私達に分霊として命を与え、ありとあらゆる周辺環境をとしての資本を下さっている。
実は、自分のものなど何もない。
みんな神様が下さったもの。
そうなると。
もう、ありとあらゆることに感謝するしかない、となります。
一言で言えば、「神様ありがとうございます」ですね。
この境地に、かなり近づいた信仰をした人達が、源左さん、才市さん、宇右衛門さんのような妙好人と呼ばれた人達になる訳です。
以前( 488_仏言葉ー022 ー 八支の道を行こう )かなり長くなると書きましたが、同義反復(トートロジー)的な自分の言い回しを、なるべく小さくまとめたので短くなりました。
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(*1)渾然~こんぜん~異質のものがとけあって区別のつかないさま。
(*2)私達はこうしたものを自然に享受できているんですよ、空気も水も、何もかも。
いちいち、対価を払いなさいとは要求されていない。
こうした対価を払えだの、占有する権利を、先取り特権のように主張するのは、私達肉体人間なのではありませんか。
私達は自己保存の本能を持つ肉体人間として生きていく便宜上、たまたま、このような主張を許されている。
このように考えてくると・・・。
もしも、神様が、怖く、恐ろしく、厳しい存在で、あなた方は、ある程度やむを得ない(想定内だった)とはいえ、あまりにも、この地球を破壊し尽くし、あまりにも肉体人間としての自分中心の利己主義にもとづいた乱れた生き方をし過ぎた。
もうこの世界はすべてご破算にするから、命から何から何まですべてを返しなさい、と言われてしまったら・・・。
神様のものは、神様に返さなければならない・・・。
そうなってしまったら・・・。
と、仮に考えると、やはり、感謝をしつつ、謙虚に生きていくべきなのではないか。
そんなふうに思うことがあります。
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①追記: 2021/10/09 11:51
②追記: 2021/10/10 05:36
③追記: 2021/10/10 06:03
〜訂正内容〜
上記複数回にわたり、本文と注釈を加筆・訂正しました。