おぶなより

世界平和の祈りに寄せて

571_仏言葉ー100 の補足3

前回( 570_仏言葉ー100 の補足2 )の続きです。

四諦と八正道(今枝さんの訳に従い、八支の道と書いてきたが、以降は、より一般的な呼称と思われる八正道に表記を変える)について、ひろさちやさんの本も参照しながら見ていきたいと思います(前回お断りしたように十二縁起は割愛します)。

仏教に関するいくつかの入門書的な本を漁ってこれらの大体の概念を把握した上で、ひろさんの独特な見解を見て、それから霊性面から見ていきたいと思います。

書いていく成り行きによっては、構成が変わるかもしれませんが、大体こんな感じにしたいと思います。

仏教徒さんをはじめ、一般的な人は、私の書き方に疑義をはさむかもしれませんね。

怒る人さえいるかもしれない。

畏れ多くも、わが敬愛するお釈迦様の説かれた理論に難癖をつけるとは、何事か、と。

しかし、すべての前提にまで遡ろうとすると、どうしても神様に行きつかざるを得なくなるんですよ。

そう考えざるを得ない。

神様に行き当たらなければ、むしろ、おかしいんです。

不自然なんです。

私の個人的な見方では、一般的な仏教関係の皆様の見解は、遡り方が十分ではない、中途半端であるように見えるのですよ。

まあ、ある程度までで、共通認識というか合意(コンセンサス)があるだろう、と話を止めてしまうように見えるんです。

私が今までに、いちいち、大前提云々と神様にまで話を戻して、遡っていろいろと書いて来たのはこうした理由によります。

ただし、神様以上には遡れない。

遡りようがない。

逆にいうと、すべては神様から始まっているからこそ、このようになる、と言えるのではないでしょうか。

あとは、絶対者としての神様の存在を信じるか否かによりますけどね。

再三書きますが、そうした私の見方からすると、無我(非我を含める)も縁起も非常に中途半端で、スッキリしない。

それに、以前触れた( 558_仏言葉ー090 ー 仏教の本質 )ように、お釈迦さんが、あえて絶対神としての神様を説かなかった可能性がある。

私流に言えば、肉体人間をはじめとして、ありとあらゆるものは、無我です。

自分のものではない。

その意味するところは、自分で作り出したものではないし、自分の思うがままの、自由自在にはならないから。

この肉体が自分自身のものならば、何でも自分の思い通りに自由自在にすることができるはずなのに、そうはならない。

必ずしもすべてが肉体人間の自由自在にはならない。

なぜか?

それは制約を課されつつも、どなたかによって与えられたものだからですよ。

しかも、肉体人間としての基本的な生命活動の維持さえも、何がしかの不思議な力によってなされている。

生きていくのさえ、自分の力ではないんですよ。

だって、呼吸や拍動は自分の意思でやっているものではなく、無意識に行われているものだから。

他の内分泌代謝機能も同様です。

寝ている時も含めて、ずっとたゆみなくこの肉体を機能させる、生かすために働きかけ続けてくれている不思議な力がある。

こうした身体を有機的に生かすための活動は、明らかに自分の意思でやっているものではない。

周辺環境として与えられているものもしかり。

肉体人間ができることは、この元である資本であるところの周辺環境に工夫を施して手を加えていくだけ。

元がなければ、何も始まらない。

それに、そもそも、その工夫の元となる知恵はどこからくるの?

やっぱり、神様のお命を頂いているからではないですか?

だから、肉体人間は、動物とは明らかな一線を画した独創的な創造能力を持っている。

つまり、みんなありとあらゆるものを神様から頂いているから、すべてがある。

ただ、無我だ、自分のものではない、神様のものではないのなら、一体、肉体人間を始めとした地球上のありとあらゆるものは、誰が作ったの?

誰がもたらしたの?

作った方(主体)は、どうでもいいの?

存在しないの?

ただ、あるだけだから、存在の意義なんか、規定値としてすっ飛ばしてもいいんですか?

ただ、あるだけだったら、カオスみたいなものだから、格別、感謝をすることもないし、称えることもありませんよね?

ずいぶん、空しい捉え方に感じませんか?

こんな空しい土台の上に、私達を始めとするありとあらゆる存在と生命活動があるんですか?

じゃあ、あの慈しみのお経は、一体、何を言っているのですか?

ただ、何でもかんでも、ありとあらゆるものは、規定値としてあるだけ。

だったら、感謝しなくたって、称えなくたっていいんじゃないの?

ただ、たまたま、あるだけ、でたらめな偶然の産物なんだから、わざわざ感謝しなくたって、称えなくたっていいんじゃん。

違いますか?

その称えたくなる気持ちさえも、どこからくるんですか?

このように考えてくると、無我や縁起は非常にスッキリしないわかりにくい立ち位置に見えるのですよ。

それに、あれ本当に綺麗な理論に見えますか?

本当に心から素直に納得できますか。

ご自分の易(やさ)しい言葉と理屈に置き換えて、スッキリと説明ができますか。

私には、まるでとってつけたような不自然なものに感じるんですけどね。

だから、私にはできない。

説明のしようがない。

もしも、仏教の初心者のはしくれの私が説明しようとするならば、めちゃくちゃに中途半端な不完全なものになると思います。

神様とハッキリと言えないばっかりに、かなり苦しい理屈を、それもピシッと決まらない(と私には思える)理屈を展開することを余儀なくされている。

私には、そのように見えます。

空を虚無のようにとらえるのもそうです。

空が虚無である、何にもない、としたら、わけがわかりません。

で、また、長くなったので、とりあえず、四諦と八正道は、また、次回以降に回します。

再度順延して申し訳ありませんが、ご了承願います。

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①追記: 2021/10/14 03:25
②追記: 2021/10/14 03:37
③追記: 2021/10/14 07:09
〜訂正内容〜

上記複数回にわたり、本文を加筆・訂正しました。