おぶなより

世界平和の祈りに寄せて

724_ひしみー145

10 初めて法輪を転ず

・釈迦が発見した古き道

前回 ( 723_ひしみー144 ) の続きです。

また、ちょっと脱線します。

前回と前々回 ( 722_ひしみー143 ) 、お釈迦さんが悟りを開いてから、その教えの伝道に至るまでの経緯に納得できない旨を述べて、できれば過去の文章をご参考のほどを、としましたが、やはり不親切だと思うので、ここにそれら 2 つの過去の文章を引用しておくことにします(改変あり)。

・( 558_仏言葉ー090 ー 仏教の本質 )
・( 559_仏言葉ー091 ー 無量の感謝 )

の 2 つです。

以下、それぞれを引用します(なお、細かい訂正日時などは省略します)。

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558_仏言葉ー090 ー 仏教の本質

第 6 章 心が晴れるためには

90.自分を救う

眼に見えるものも、見えないものも
遠くのものも、近くのものも
すでに生まれたものも、これから生まれるものも
生きとし生けるものをことごとく幸せにせよ

(スッタニパータ)

今枝さんの注釈によると、
この経文が含まれている
八 慈しみの経(八、慈しみ) (カッコ内は中村さんの本にある該当箇所の名称)は、
第一章 蛇の脱皮の章 (第一 蛇の章)
八 慈しみの経 (八、慈しみ)
に収められているもので、
第二章 小さな章 (第二 小なる章)

三宝の経 (一、宝)
こよなき幸せの経 (四、こよなき幸せ)
と並んで、テーラヴァーダ仏教(*1)では最も重要視され、一般にも知られ、唱えられる、ということ。

中村さんの訳では、この経文の末尾が「幸せであれ」となっている。

佐々木さんによると、仏教は自己救済の宗教だが、自己救済のためには自己中心の考えを捨てることが必要で、それは結果的にあらゆる他者への利他の願いになるという意味で、仏教は自己を救うために、他者の安楽を願う宗教、であるとのこと。

何だかわかりにくいですね。

追って追われて、わけがわからない(私には)。

自他一体感。

自分も他人も一緒。

そして、
それは一切合切の、
目にも見えないあらゆるものまでも。

こうやって、慈しみの心を及ぼす。

まずは。

自分と他人は一緒。

それはなぜ?

この世には、
そんなふうには思えないことが、
数えきれないほどにあるのに。

むしろ、他人は疎(うと)ましい。

この世は、(今のところ)競争社会だから、
他人は競争やマウントの相手ではあっても、
これを尊重しているほどの余裕はない。

それに、
そもそもとして、
目に見える肉体として分かれていて、
しかも、
誰一人として同じ性格の人はいない。

必ず個性が異なっている。

もちろん、これは、 過去の時代に過ぎ去って行った人達も、
これから未来に生まれてくる人達にも、
同じように当てはまる。

仏教は自分で自分を救う宗教だとされる。

これは、言い方を変えれば、
自分を真に人間として大事にすること、
しかも、
自分の肉体人間としてのこの世での唯物論的な利害得失を最大化する意味ではなくて、
自分を仏性をそなえた仏(神様ですね)の命を頂く者として、
心を正しく修めて(浄めて)、
気高く生きていくための宗教、
と言えるだろう。

それは、
基本的には、
自分だけが悟ることができればいいはずの宗教であり、
自分だけが涅槃に至ることができればいいはずの宗教であるはずではないのか?

それなのに、なぜ、他人を尊重するの?

自分が気高く生きていくためには、
便宜的に他人を尊重しなければならないから?
それとも、
他人を尊重することが、自らの人格を高めることに含まれるから?

一応、
便宜ではないとして、
自らの人格を高めることに、
なぜ、他人を尊重する、
大事にすることが含まれるの?

この世では、
無限億万(?)の、
数えきれないほどの人間関係があって、
憎み合ったり、
いがみ合ったり、
争い合ったり、
することもたくさんあるのに。

これは、
親子、兄弟、夫婦、親戚、友人、知人、赤の他人の間を問わず、
あまねくすべてにわたってあることです。

それなのに、なぜ?

しかも、肉体人間間同士だけではなくて、
この他者を大事にする慈しみの思いを、
目に見えるものから目に見えないものにまで、
もっと言うと、
五感に感じることができないものまでも及ぼすと言う。

それはなぜ?

仏教の「空」にしてもそうなんだけど、
こうした話を見てくると・・・。

やっぱり、霊性の観点から見ていくことが必要だと思います。

すべては神様があらわしたものであり、
目に見えるものから、
目に見えないものまで、
この世からあの世(そして、霊界から神界まで)、
ありとあらゆるものは、
神様のあらわしたもの、
すなわち、
神様のもの、

ハッキリ言わないから、
何となくモヤモヤしている、
スッキリしないんじゃないですか?

すべては神様のあらわしたもの、
すべては神様のもの、
と言えば、
スッキリしますよ。

わかりにくく、
中途半端な、
縁起を持ち出さなくても済みます。

肉体人間の個人個人は、
どんなに個性が異なり、
馴染めなくても、
違和感があろうとも、
反目していても、
それぞれの肉体を生かしているのは、
他ならぬ神様のお命であり、
従って、
肉体人間の本質は、
神様の分けられたお命にある、
ということになれば、
どんなに離れて隔てられた関係に見えようとも、
神様の命の観点からすれば、
同じ神様の子供としての、
兄弟姉妹になるからです。

ならば、
本来的には、
愛し合い、慈しみ合うのは、
自然なことであり、
あるべきことであり、
当然なこと。

本来はこのようにあるべきなのに、
すべてを隔ててしまっているのは、
肉身を得てこの世で肉体人間となり、
自己保存の本能により、
自他を分けてエゴに走るようになり、
たくさんの過去世で積み重ねられた、
お互いを隔てる悪しき因縁が、
積み重ねられてきたから。

ならば、
これらの因縁は、
因縁を果たす(受け入れる)か、
浄めて消し去ることができれば、
すべてはなくなる。

なぜならば、
あくまでも有限だから。

肉体人間が、
この世に降ろされてからだから、
無限億万(?)の悪い因縁が、
溜まっているかもしれないけれど、
それにしても、
有限であることには、
変わりがない。

そして。

目に見えるものから、
目に見えないものまで、
五感に感じることができなくても、
その存在が認められるものは、
やはり、
すべては神様のあらわしたもの。

このように考えてくれば、
神様のおつくりになられた、
五感に感じることができなくても、
ありとあらゆる存在を、
尊重する、
愛する、
慈しみの心を及ぼす、
ということは、
神様のおつくりになられた、
ありとあらゆるものを、
尊重して愛する、
ということになります。

つまり、神様讃歌です。

自らも神様のお命を内に頂き、
ありがたさを噛みしめ、
そして、
その神様がおつくりになられた、
ありとあらゆるものを、
外にたたえる。

以上のようにとらえることができれば、
慈しみのお経というのは、
その本質が、
神様をたたえているお経である、
神様讃歌である、
ということになります。

もしも仏教が、
輪廻転生や守護の仏様(神様)以外に、
創造主としての絶対神としての神様を、
今ここにハッキリと認めるならば、
仏教は神様讃歌をする宗教、
とまで言えることになります。

お釈迦さんが霊魂を無記としたり、
仏教は絶対神のような神様を認めないように言う(梵天帝釈天といった神様は、こうした位置づけにはなっていない)から、
スッキリしないところが出てくるんですよ。

以上は、あくまでも、個人的な感想ではありますけれど・・・。

五井先生の本によると、お釈迦さんが神様を打ち出さなかった(説かなかった)のは、お釈迦さんの在世当時には、迷信のような宗教もたくさんあり、爬虫類や動物を神様として拝んだ宗教がたくさんあって、念力が出たり、念力合戦があったりもした。

そこで、お釈迦さんは、いっぺん神様というもの、絶対者である造物主という形も全部なくして、自分で悟る方法を教えた。

自分自身が仏であり、神様とは言わなくても、神様(仏様)から来ている命だから、その命を覆っている業、自分勝手な思いや自我欲望(肉体人間としての自らの利害得失を最大化することだと思われる)を取りさえすれば、本当の(神様(仏様)としての)自分が出てくるんだ、と教えて、他からくる神様の力などを説かなかった、ということらしいです。

だから、このスッタニパータの慈しみのお経というのは、その本質においては、
神様讃歌と考えることができます(一般的な仏教関係の人は決してそうは言わないでしょうけど)。(*2)

以上、個人的なものの見方ではありますが、スッタニパータに収められている、慈しみのお経を元に、仏教の本質を考えてみました。

このように見てくると、仏教の「自分を救う」というあり方には、自然なこととして、他者を尊重する、大事にする、救うことが、当然に含まれてくることになります。

なぜならば、既述のように、肉体人間は、その誰しもが、神様(仏様)のお命を頂いて生かされているものであり、その本質は、肉体ではなくて、神様(仏様)のお命を生きている者ということになるからです。

そして、
肉体人間として抱く想いが、
神様の世界から流れてくる光を遮(さえぎ)らない、

それは、
自らが生きていることと、
自らが神様に生かされていることとが、
完全に一つになった時、
すなわち、
自らが神様のお命を生きている者だと、
心の底から感得できて、
神様もよおしに、
ありとあらゆる、
想いと行いができるようになった、
その時にこそ、
本当の悟りが得られる、
と考えられます。

~~~~~

(*1)テーラヴァーダ仏教~スリランカやタイやミャンマーなどの出家教団によって継承された南伝の仏教。上座部仏教とも言う。

初期の仏教形態で、主にこれらの東南アジアで信奉されているという。

(*2)もしも、万が一、慈しみのお経の作者さんが、こうした神様讃歌をおおっぴらに言えないために(お釈迦さんが、いっぺん神様というもの、絶対者である造物主という形も全部なくして、自分で悟る方法を教えたことに配慮したため)、絶対者である造物主の神様を出さなかったのではなく(つまり、意識的にこうした神様を避ける形をとったのではなく)、無意識的にこうした神様を出さずに、あのような慈しみのお経を作ったのだとすれば、「結果的に」神様讃歌の内容になったことになります。

そして、縁起もそうですが、サンユッタ・ニカーヤでも、古くは非我、後の無我の心境のお話も、このお釈迦さんの経緯に配慮したために、なされたことだったとしたら・・・。

果たして、真相やいかに。

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559_仏言葉ー091 ー 無量の感謝

第 6 章 心が晴れるためには

91.正しい教えはわけへだてなく

また全世界に対して
無量の慈しみの意(こころ)を起こすべし
上に、下に、また横に、
障害なく(*1)怨みなく
敵意なき(慈しみを行うべし)。

(スッタニパータ)

(第一 蛇の章 八、慈しみ より)

だいぶ前に、
中村さんの原始仏典のところで、
お釈迦さんが自力で悟った後、
その内容を布教するつもりがなかったところに、
偉い神様である梵天様の説得にほだされて、
布教におもむいた話がありました。(*2)

このように、
元々は、
お釈迦さんは自らが悟った内容を
教えとして布教するつもりはなかった(とされている)。

自分の悟った内容は、
あまりにも深遠で、
一般の人々には理解できない、
と思っていたことなどが、
理由としてあげられることがあるが、
本当のところはどうなのだろうか。

五井先生の宗教観・神様観からすれば、何だか言い訳がましく聞こえないだろうか(もちろん、五井先生はお釈迦さんを崇拝しているし、私のようなこうした批判めいた内容は一切言ってはいない(=書籍に書いていない)から、これはあくまでも私の独断と偏見になるのだけれど)。

佐々木さんは、
お釈迦さんが、
この梵天という偉い神様の懇願(中村さんは懇請としていた)を
受け入れた時点で、
仏教が、
「自分のためだけの宗教」
から
「人々のための宗教」 へと変貌した、
自利から利他という
慈悲を基本とする宗教に変貌した、
としているが、
これは、いくぶん、
こじつけには見えないだろうか。

前回 ( 558_仏言葉ー090 ー 仏教の本質 ) も書いたしたように、
もしも、仏教が、お釈迦さんが、
元から創造主としての絶対神
認めていたとするならば、
こうした逸話(?)は、
なくてもいいことに
なりはしないだろうか。

極論かもしれないけれど。

はじめに結論を言うと、

私が感じたのは、
お釈迦さんは、
何らかの意図を持って(いたと仮定すると)、
霊魂を無記としたり、
非我や無我や縁起を使っていたのは、
創造主としての絶対神を明らかにしないまま、
かなりの外堀からの説明をせざるを得なかったために、
あのような難解きわまる話に
なっていたのではないか、
ということです。

非我あるいは無我にしてもそうです。

私達のこの肉体はどこから持ってきたの?
両親?
じゃあ、その両親はどこからきたの?
と、
どんどん、たどって行ったらどうなりますか?
一体誰がどんな形で肉体人間の元をつくり出したんですか?

肉体があれば生きている?
ならば寿命の尽きた人はなぜ動かなくなるんですか?
肉体に働きかける何らかの力が、
なくなってしまった、
と考えるのが自然ではありませんか?

つまり。

この肉体も、
肉体に働きかける力も何もかも、
あらかじめどこからか与えられている、
みんな対価を支払わず、
無償で与えられている、
ということです。

何らかの絶対的な力のある存在によって。

そう考えざるを得ませんね。

だから、無我なんです。

元からの自分のものは何もない。

最初っから、自分のものは何もない。

自分の力で生まれてきた訳でもなければ、
自分で成長して行く訳でもない。
自分で自らの(肉体人間の)寿命を限る訳ではない(自殺を除く)。

これらも、
肉体に働きかける何らかの不思議な力の
働きかけによっている。

つまり、
肉体にまつわるあらゆることが他動的になされていくから
無我ではあるけれど、
力や物質を与えた何者かは存在する、
働きかける何らかの摩訶不思議な力はある、
ということです。

それを、
その絶対なる存在を「ない」、「無記」としなければならないために、
相当に苦しい回り道を強いられているのではありませんか?

この地球さんをはじめとする、
私達肉体人間を取り巻く環境もそうです。

同じように考えることができます。

創造主としての絶対神を、はじめから認めていれば、こんなに難しい回り道をしないのではありませんか。

ただ、
この神様というのは、
特定の形に頑なにこだわったり、
えこひいきをしたり、
そうした神様ではありませんね。

ありとあらゆるものに、
あまねく命をはじめとした資本を与え、
あとはそれぞれの立場とやり方で、
その資本を生かしながら生きていく。

元は与えましたよ、
あとはあなたがたで、
私の子供としてふさわしいように、
やって行きなさい、
とする神様ですね。

このような神様に感謝を捧げ、
そのあらわしたものすべてをたたえる。

これはきわめて自然な、
ごく当たり前の帰結なのではありませんか。

そうして同じ肉体人間が、
神様の分けられたお命を本質とする点で、
誰も彼もが同胞であるとわかれば、
いかに困難を伴うと思っても、
愛を施すべきだ、
困っている、苦しんでいる人がいるならば、
救いに立つべきだ、
と自ずと思うのではありませんか。

お釈迦さんが、
何もわざわざ梵天様に ほだされることはなくても、
梵天様が、
わざわざ出向かれて
何度もお釈迦さんをご説得なさらなくても・・・。

ありとあらゆるものをあらわした
神様をたたえ、
そして、
その世界の中心的な役割を担う、
同胞である肉体人間が迷っているならば、
世の中が乱れているならば、
救いに立とうとするのは、
当然の成り行きではありませんか。

つまり。

佐々木さんの言うような、
自利から利他ではなくて、
元から利他なのではありませんか。

もう悟りを開いてしまえば、
神様の子供として、
あるべきことを、
自然に行うように、
なるのではありませんか。

以上のように考えてくると。

お釈迦さんが、梵天様とのやりとりで、
世の中をよく見渡した上で言ったとされる、
「耳ある者どもに甘露(不死)の門は開かれた。
(おのが)信仰を捨てよ。
梵天よ。
人々を害するであろうかと思って、
私(わたくし)は微妙な巧みな法を人々には説かなかったのだ。」

という言葉は、どうもピンときません。

他のおかしな信仰をしている人々がいれば、その信仰を自発的にしろ、何にしろ、やめさせるのは本人にかなりの苦痛を強いる場合があるから?

だったら、はじめは辛くとも、おかしな信仰から離脱させることこそが、最終的には本人のためになるんじゃないの?

まあ、それまでの本人の因縁因果を見越して、今生での救いはひかえた方がいい場合もあるのかもしれませんが・・・。

輪廻転生の卒業のためにも、善は急げなんじゃないですかねえ・・・。

それと。

訳の問題かもしれないけれど、耳ある者「ども」とか、梵天様に対して対等以下に呼びかけているととれかねない「梵天よ」というセリフといい、なんかしっくりこないんですよねえ。

私の偏見かもしれませんが。

自然に救いに立った、とする方がはるかに素直でわかりやすいと感じるんですけど・・・。

といった感じです。

これは、あくまでも、 机上の空論にしか過ぎませんが、
もしも、お釈迦さんが、仏教が、
創造主、造物主としての絶対神
(暗黙の)前提としているならば、
こうしたことが考えられるのですよ。

慈しみのお経(一四三 ー 一五二)を
ざっと見た限りでも、
本来なら肉体人間が自らの心を修め(浄め)て悟りを得ることが何よりの大事なことなはずなのに、
一切のものは幸せであれ、
のように出てくるのは、
いくぶん、
脈絡のない話が唐突な印象を抱いてしまうのですよ。

もちろん、
悟りを開くことができれば、
肉体という、
欲望に引きずられがちな
大変重い足かせを持ちながらも、
神様(仏様)そのままのみ心をあらわせる
素晴らしい人格をそなえた肉体人間になれるのだから、
対人、そして、自然をはじめとする
ありとあらゆるものに対して、
慈しみの感情は
ごく自然に抱くでしょう。

そうした素晴らしい肉体人間に
なることができれば、
神様讃歌を唱えるのには、
違和感がないことは確かです。

しかし。

あそこまで、高らかに 謳い(漢字はこれでいいのかな?)上げる
というのは、
元から創造主としての絶対神に対して、
こうした気持ちがあったから、
とは取れないでしょうか。

それとも。

自己をきわめて悟りを得ることに
注力し過ぎた(?)
仏教のあり方に対して、
言い訳として(?)、
反省として(?)、
多少の揺り戻しが必要だ、
と考えたのでしょうか。

いや・・・。

やっぱり、言い訳や反省では、
一つの系統だった宗教の教えとしては、あまりよろしくないような気がします。

悟りを開いた者として、
ごく自然に唱えると言うよりは、
自らも神様のお命で生かされ、
そして、生きていくための、
ありとあらゆる環境を
ご用意して下さっている、
与えて下さっている、
しかも、
こんな素晴らしい
大自然をはじめとしたものを、
という感謝の気持ちの発露ととらえた方が、
違和感がないように思うのですよ。

あくまでも、個人的な感想ですけれど。

こうした、
神様をたたえずにはいられない、
そうした気持ちの発露ととらえた方が、自然な感じがするんです。

なので。

慈しみのお経で、
神様讃歌を謳うのも、
唐突ではなくて、
きわめて自然な成り行きであり、
むしろ、
当然のことだったのだ、
むしろ、そうしなければならない、
こうした内容は、
経文には存在しなければ、そもそも、おかしいはずだったのだ、
と勝手に解釈しています(ただし、量はすごく少ない。讃歌はあまりゴテゴテとはするべきではない、ということか)。

このように考えてくると、今回のこの中村さん訳の経文は、
創造主としての絶対神を、おおっぴらにはできない、暗黙の前提としかできないから、
絶対神の存在を
公に明言することはできないが、
本当にありがたいのだから、
感謝してもしきれるものではないけれど、
とにかく感謝をしなさい、
と読み取れます。

「無量の慈しみの意(こころ)を起こすべし」という中の、
「無量」という言葉には、それがあらわれている、と思います。(*3)

しかも。

神様とそのあらわされたもの
(神様が形を変えたと考えればこれも神様と看做(みな)せる)は、
目に見えるところも、
目に見えないところにも、
果ては宇宙にまで遍満している、
神詰まりに詰まっている。

上記経文の言い回しの、
「上に、下に、また横に、障害なく(*1)怨みなく敵意なき(慈しみを行うべし)」
は、
神様が
あらゆるところにある(偏在する)ことを、
神様があまねく遍満していることを、
わかっていたからこその言葉だ、
と考えると、
きわめてスムーズに理解できます。

よく納得できるお話です。

こうした予備知識(?)がないと、
前後左右上下を慈しむ、
そして、
礼拝まですることの意義は、
わからない気がするのですよ。

と、ここまでくると、また一つのことに気がつきます。

それは。

「慈しむ」という言葉についてです。

試しに、これを字引で引いてみると。

・慈しむ~いつくしむ~愛し、大切にする。可愛がる。
(用例)わが子を慈しむ。

・慈しみ~恵み。慈愛。
(用例)仏の慈しみ。

これらのことからわかるのは、
慈しむ、慈しみ、というのは、
相対的に見た場合、
上位の者が下位の者に対して抱く感情、
といった意味合いがあることです。

慈しみのお経 は、
肉体人間の方から神様と、
その神様のあらわされたもの(=神様と看做せる)に感謝を捧げる、
謳い上げる、
という意味合いがある
と考えられるのです、

肉体人間は、
神様の分けられたお命を頂いていますから、
本質は神様ですが、
これが感得できていない、すなわち、悟れていないのが一般的です。

ということは、
肉体人間は
感謝の対象である神様と、
そのあらわされたもの(肉体人間も含めて)よりも、
下位に位置する、
と思われるのです。

そうなると、

この慈しみのお経という名前よりも、
感謝のお経を意味する表現(名前)に変えた方が、
いいような気がしてくるのです。

それに。

たとえ、悟れていたとしても、
目に見えてわかるように、
下位の立場ではなくとも、。、
悟れていない時と同じように、
感謝がわいてくるのが、
神様の命を頂く者のしての、
素直な姿だと思います。

神様と、
そのあらわされたものの
そのすべてをたたえる、
感謝を捧げる、
すなわち、
下位の肉体人間から、
上位の神様と
そのあらわされたものの
化身ともいうべきすべてをたたえて、
感謝奉(たてまつ)る。

これならば、
慈しみのお経というよりも、
感謝のお経という意味を持つ名前の方が、
ふさわしいのではないか、
ということです。

まあ、
ゴタゴタと、
うるさいなと、
お感じになられた方も、
おられるかもしれませんが、
気がついてしまったので、
ここに記しておきます。

もちろん、
私の文章ですから、
多分にいくつもの、
内容の間違いがあるかもしれません。

その点は、あらかじめご承知置き下さりますよう お願い申し上げます。

~~~~~

(*1)障害なくとは、場所のことを言っている。場所に関しても分け隔てなく、限界を設けないしないことを意味する。

(*2)中村さんは、原始仏典の中で、梵天という神様のことを、世界の主とか、世界創造の神だと前半で書いている。

しかし、後に、仏教では世界を創造した神は認めていないと書いていて、完全に書いてあることが矛盾している。

錯綜している。

中村さんは、もうだいぶ前にご逝去されていますので、どちらがご本意だったのかは、いまだにわからないままです。

(*3)無量~むりょう~はかりしれないほど多いこと。
(用例)感無量。