おぶなより

世界平和の祈りに寄せて

586_ひしみー008

01 釈迦はいかなる存在か

・大乗経典が描く釈迦

適当にまとめる(意訳・改変・省略あり)。

今までに書いてきたような訳で、
ひろさんが描きたいのは、
小乗仏教の釈迦 ー 人間としての釈迦
ではなく、
大乗仏教の釈迦
なのだそうだ。
大乗仏教仏陀観にもとづいた釈迦を
お書きになりたいとされている。

で、ひろさんは、大乗仏教でのお釈迦さんは、人間離れをした姿で描かれているとして、法華経の例をあげている。

ひろさんは、従地涌出品(じゅうじゆじゅつぼん)の話をまさに奇妙奇天烈としか言いようがないと言っている。

これは、以下のようなお話。

お釈迦さんの説法を聞いている
他の仏国土から娑婆世界に訪問してきた人達が、
お釈迦さんがこの世を去った後に、
お釈迦さんの教えを広めることの申し出を、
お釈迦さんがにべもなく断ったくだり
のこと。

まあ、有名な話だし、申し訳ありませんが、適当にはしょります。

お釈迦さんは、
すでにガンジス河の砂の数を 6 万倍ほどした大乗仏教の信奉者としての菩薩を養成済みで、
そのお弟子さん達は、さらに膨大な弟子を養成していて、法華経を説き広めてくれるから、
あなた方の協力は不必要だと断った
というお話。

ひろさんは、
お釈迦さんがこうして無限大のお弟子さんを得ていたことを告げた後、
さらに、広大な娑婆世界の大地に亀裂が生じて、
その割れ目から無限ともいうべき菩薩達が出現した、
つまり、
お釈迦さんがこの世において、
すでに無限ともいうべきお弟子さんを教化したことが証明されたことを指して、
これはあまりにも現実味のない話だ
としている。

たった 80 年の生涯で、こんなことができるはずはない、と。

そして、法華経の中で、久遠実成(くおんじつじょう)の仏を立てて、この信じ難いことが可能であるとされている、としている。

さらに、ひろさんは、この言い方さえ生ぬるいとして、以下のように言う。

そもそも法華経は、この久遠実成の仏としての仏陀観を教えるために作られた経典だ。

久遠実成の仏は、宇宙仏(ひろさんの造語。すみませんが宇宙仏については 585_ひしみー007 を参照して下さい)であり、無始無終、つまり、永遠の存在としての仏陀だ、としている。

そして、月のことを例えに、お釈迦さんは、永遠の存在とされていることを説明している。

すなわち、以下の通り。

空に見える月を「久遠実成の仏」であり「宇宙仏」であるとし、雲に覆われて見えなくなっても、地球に太陽からの光を遮られて、満月、小さな三日月、新月と、様々に形を変えて見えても、月は球形のままで変わらない。

これと同じように、私達はお釈迦さんが 80 才でこの世を去ったと思っているが、これは違うと言う。

お釈迦さんは、この月の例えのように、無始無終の永遠なる存在である。

法華経は、こうした永遠の仏陀観を私達に教えてくれるものだ、としている。

この例えは・・・。

何だか五井先生の本にあった太陽とむら雲の例えを思い出すなあ。

まあ、とにかく、ひろさんのこの稿に関する説明は、以上の通りです。

長くなりましたし、ちょっと書き加えたいことがあるので、次回に続きます。

~~~~~

・奇天烈~きてれつ~この上もなく、変わっていて不思議なさま。
(用例)奇妙奇天烈~奇妙を強調していう語。

・娑婆~しゃば~(梵語の音訳)①(仏教語)現世。人間世界。俗世。
②獄中や兵営内などに対して、自由で束縛のない一般人の世界。
(用例)娑婆に出る。
ここでは、①の意。

・久遠~くおん~(仏教語)久しく続いて限りないこと。永遠。

・無始~むし~(仏教語)どこまで行っても始まりのない、限りなく遠い過去。

・無終~むしゅう~(古くは「むじゅう」)終わりのないこと。果てしのないこと。

・無始無終~むしむじゅう~(仏教語)始めも終わりもなく、限りなく続いていること。
生ある者があの世からこの世へと生まれ、苦しみを味わい、再び死んであの世へ戻っていくという輪廻が無限であること。
「始終」を分けて、それぞれに「無ない」をつけた語。
「始はじめ無なく終おわり無なし」と訓読する。
「終」は「しゅう」とも読む。