592_ひしみー014
01 釈迦はいかなる存在か
・大乗仏教から見た釈迦
今まで、ひろさんの書いていることに、いろいろと文句をつけてしまったので、とりあえず、この章( 01 釈迦はいかなる存在か )の結びのこの項目( ・大乗仏教から見た釈迦 )は、ひとまず、ひろさんの主張を書こうと思う(改変・省略などあり)。
以上の説明によって、本書において私(←ひろさんのこと。以下、同様)が書きたいのは、「大乗仏教から見た釈迦」とした意味がおわかり頂けたかと思う。
釈迦を普通の人間として描けば、仏教(ダルマ)は地球的真理でしかなくなる。しかし、地球的真理ならば、ソクラテスや孔子その他の様々な思想家が説いたことに過ぎず、釈迦の教えた仏教は、多数ある地球的真理の内の一つでしかなくなる。私は、そうした立場に立ちたくないのである。
私が書きたいのは、宇宙仏としてのメッセンジャーとしての釈迦仏である。
そこでは、釈迦が教えた仏教(ダルマ)は宇宙的真理である。
そういう立場に立って、私は釈迦を書きたいのである。
日本の仏教は、実は大乗仏教の系譜に属している。日本人は江戸時代までは、大乗仏教の仏陀観に立って仏教を理解してきた。すなわち、仏教は宇宙的真理だと信じてきたのである。
ところが、明治時代になり、西洋経由でパーリ語の仏教聖典が伝来した。
大乗仏教の経典は、大体がサンスクリット語(漢訳仏典はサンスクリット語から翻訳されている)だが、小乗仏教の経典は、パーリ語で書かれている。
この新たな仏教聖典は、当時の日本人にとって、新鮮に映った。大乗仏教の漢訳仏典の釈迦は、いささか荒唐無稽である。それに比べて、パーリ語聖典が描く釈迦は人間的だからだ。
そのために、近代の日本の学者の大部分は、この小乗仏教の釈迦こそ本物であり、大乗仏教が描く釈迦は偽物とはいわないまでも、伝説化された人物、神話化された人物、フィクション的人物と受け止められたのである。
まあ、それも無理はない。釈迦は歴史上に実在した人なのだからー私はそれを否定しているのではないー歴史的人物としては、パーリ語文献が伝える釈迦の方が実像に近い。その意味では、大乗経典が伝える釈迦はフィクションである。
けれども、釈迦を単なる歴史上の人物と見るならば、釈迦は、ソクラテスや孔子と同次元の存在になってしまう。
そのような釈迦を我々は拝めるか?!
尊敬はできるかもしれないが、宗教的礼拝の対象となるだろうか?!
近現代の仏教学者達(とりわけ文献学者達)は、歴史的人物としての釈迦を描くことばかりに専念していて、釈迦が宗教的礼拝の対象であることを忘れてしまっているのだ。
その点が私の不満である。
それで、私は、大乗仏教の仏陀観に立って、その上で歴史を生きた人間としての釈迦を描きたいのである。
すなわち、釈迦は、我々と同じように現実の苦悩を生きた人間でありながら、その苦悩を「宇宙的真理(ダルマ)」によって克服した存在である。
そして、その「宇宙的真理」を我々に教えてくれた、そうした視座に立って、私は釈迦を書こうとしているのである。
とのこと。
長くなりましたので、ここで区切ります。
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①追記: 2021/11/14 01:08
②追記: 2021/11/14 18:53
〜訂正内容〜
上記複数回にわたり、本文を加筆・訂正しました。