おぶなより

世界平和の祈りに寄せて

587_ひしみー009

01 釈迦はいかなる存在か

・大乗経典が描く釈迦

前回( 586_ひしみー008 )、法華経の従地涌出品の話を通して、大乗仏教におけるお釈迦さんの位置づけの再確認をするような内容を見てきた。

まあ、唯物論では、到底、理解不能な奇妙奇天烈な架空の内容にとられても仕方のない内容だった。

ひろさんは、肉体人間としてのお釈迦さんが、80 年の寿命しかなかったのに、無始無終という永遠なる存在であることを、あまりはっきりした理由づけもなしに、強引にお釈迦さんを特別の絶対者に祭り上げているようにしか読めない(個人的には)。

やはり、永遠の命を持つお釈迦さんの話も、無数にいるお弟子さんたちの話も、霊性を肯定しないとわかりにくいことこの上ないし、なかなか理解できないと思う。

法華経には、こうした側面があるので、唯物論だけでは、多分理解できないように思う。

私は五井先生の本に出会って、やっとこの法華経の不可解さが少しはわかるようになった。

私がクドクド説明するよりも、五井先生のお話を見た方が、はるかにわかりやすいと思うので、参考になる部分を、かなり長くなるが、ここに引用する(巻末に特に引用の制限は書いていなかったから。なお、一部改変あり)。

・無限億万年の昔から悟っている仏

法華経如来寿量品(にょらいじゅりょうぼん)に、お釈迦様は菩提樹の下ではじめて悟ったのではなくて、永遠の昔から仏であって、常に衆生を教化して仏道に入らしめていた、とありますが、これについて説明していきましょう。

お釈迦様は断食したり、身体を痛めたり、いろいろと苦行しまして、最後に苦行は悟りの因ではない、といって菩提樹の下で明けの明星を見て悟った訳です。

ところが、悟ってからどういったかというと、三十何歳で悟りを開いたのではない、自分は無量阿僧祇劫(あそうぎこう)から、つまり、無限億万年の昔から悟っている仏なんだ、というんです。

ちょっと聞くとおかしいですね。三十何歳で悟りを開いたのではなくて、昔の昔、無限億万年の昔から、いわゆる生命を得た時から悟りを開いたものだ、というのですね。矛盾するようでしょう。

これはどういうことかといいますと、いつも私(=五井先生のこと)が申しておりますように、この肉体にあらわれている人間というものは、あなたとか私というものではなく、あなたであり、私であるものの一つの生命のあらわれとして、肉体人間として生まれてきているのです。

だから、私もあなた方も、すべて本当は、神様のみ心の中に、仏様そのものの姿で生きているのです。

普通は、この真理がわからないで、五十歳の誰某、三十何歳の誰々、八十歳の誰々と、迷いの中の、業生の中の波に合わせて生きているのが人間だと思っている訳です。それが私であり、あなたであると思っている訳です。

ところが、本当は、神様のみ心、真実の自分が地球界に働きを広げるために、地球界を開発するため、開拓するために、仮に肉体身にあらわれている自分なのです。

お釈迦様はそれがわかった訳です。だから、三十何歳で悟りを開いたのではなくて、阿僧祇劫以前、言い換えれば、どんな数を積み重ねてもはかりしれない位の昔の、無限年間の前から悟りを開いているということは、自分の本体は仏そのものであり、神そのものであるということなのです。

そのようにお釈迦様は悟った。そこでみんなにわかるように、阿僧祇劫以前から悟っているのだ、と説明しただけなのです。

現代流にいえば、永遠の流れというものは、大生命、一(いつ)なるものがいくにも分かれてこの宇宙ができている訳ですね。

その一なる神様のみ心の中に自分がいた訳ですが、その一なるものが各種に分かれて、私流にいえば七つの直霊に分かれて、さらにそこから分霊魂魄としてこの肉体界に宿っているのです。

ですから、元の自分、本当の自分というものは直霊そのもの、神そのものであるという訳です。これがわかれば一番いいのです。

肉体で何歳で死のうと、どうなろうとそんなものは何でもない。消えてゆく姿。泡沫のようなものなのです。時間がたてば忘れてしまうものです。

ところが、永遠の生命というものは、無限時間永遠に生きているものですから、それは忘れようも、消えようもない、実在するものなのです。

何の誰がしという名前であらわれているものではなくて、生命そのもの、自分そのものが永遠に生きているんです。しかも、その永遠に生きているものは個性を持っているのです。

ただ、唯一の神のみ心というものは、働きとして方々に分かれている。その働きの源というものが本体なのです。A であり、B であり、C である働きの元にいる訳です。

ですから、神様のみ心にそのまま入る、全託すると、肉体界の想いというもの、あるいは幽界の想いというもの、霊界の想いというものが、つまり、小我が全部なくなってしまって、神そのものがあらわれてくる。

神様のみ心が、行動となり、教えとなっていく訳です。

そういうことのできる人は、神様のみ心そのままであるから、今、悟ったのではなく、永遠に生きている自分であり、神そのもの仏そのものの自分であり、初めから悟りを開いている自分であるということになるのです。

法華経の寿量品は、それをいった訳です。

以上が、五井先生のお話です。

この話を感得するには、やはり、相当な霊性の開発をしないと難しいと思うが、少なくとも、唯物論で説明しきれない解説よりは、はるかにわかりやすい。

人間=肉体人間にしか過ぎないという唯物論と、
肉体は仮の姿、あらわれであり、本体はあくまでも神様の分けられたお命とする霊性を肯定する立場の説明では、
これだけ内容が違う。

個人的な感想だが、私は五井先生の本に出会わなかったら、生涯、法華経はわからずじまいだったと思っている。

この霊性を肯定する立場を参考に、法華経の従地涌出品の話を再解釈し直す作業は、読まれた方への宿題としたい。

勝手ながら、このようにさせて頂く。

なお、これらをどのように捉えるかは、読まれた方のご判断次第だ。

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①追記: 2021/11/09 07:22
②追記: 2021/11/09 07:40
〜訂正内容〜

上記複数回にわたり、表題ならびに本文を訂正しました。