590_ひしみー012
01 釈迦はいかなる存在か
・宇宙のあるがままの姿が「如」
ここで、ひろさんは再び例の「宇宙仏」(すみませんが宇宙仏については 585_ひしみー007 を参照して下さい)なるひろさん特有の造語を持ち出し、ギリシャとインドの宇宙観の違いを比較して、インドの宇宙観に軍配をあげ、この宇宙のあるがままを「如」として、これを突如として如来に結びつけ、だから、お釈迦さんは宇宙から来たる仏なんだと、半ば強引に話を持っていっている(ように見える)。
何だか、あんまりピンとこないんだよなあ、悪いけど。
一応、ひろさんの話をもう少し詳しく見てみる。
ギリシャの宇宙観では、混沌(カオス)のどろどろの後に、秩序が与えれて宇宙になった。
いわば、ギリシャ人は、宇宙の前のカオスを否定的に見ているとされる。
秩序が整えられた後が宇宙と読み取れるな、この書き方は。
これに対して、インド人は、ギリシャ人が宇宙の前のカオスをタタター(そのようであること。漢訳は真如)として肯定的に捉えて、これが宇宙のあるがままの姿とする。
要するに、
原初混沌 + 秩序整備 = 宇宙
がギリシャの宇宙
原初混沌 = 宇宙
がインドの宇宙
ということらしい。
何のために比較しているのか、意図がよくわからないんだけど・・・。
とにかく、ひろさんは、インドのあるがままの混沌宇宙を支持する、として、真如=宇宙のあるがままなので真理だと結びつけ、ここにいきなり(?)如来という言葉を持ち出し、如来=仏 なのだから、釈迦仏は釈迦如来であり、阿弥陀仏は阿弥陀如来で、薬師仏は薬師如来と呼ばれると、話を性急(?)に飛躍(?)させる。
そして、この如来は、真如(宇宙・真理)から来たれる者と書くのだから、釈迦如来であり、これはすなわち、宇宙(真理)から我々人間世界にやって来た仏(如来)として、半ば強引に(?)話を持っていっている。
そうした訳で、大乗仏教における釈迦仏は、釈迦如来だともしている。
従って、人間が悟りを開いて仏となる小乗仏教とは、大乗仏教の仏陀観はまったく違うのだ、と結論づけている。
うーん。
いいのかな、これで・・・。