おぶなより

世界平和の祈りに寄せて

597_ひしみー019

01 釈迦はいかなる存在か

大乗仏教から見た釈迦

前回( 596_ひしみー018 )、この章( 01 釈迦はいかなる存在か )は、これで終わりにすると書きましたが、勝手ながらもう 1 回書きます。

とりあえず、ひろさんのお釈迦さんに対する見方と、自分の霊性的な見方を、繰り返しにはなりますが、簡単にまとめてから次の章( 02 釈迦仏の誕生 )に行きます。

これには、ひろさんのお考えに対する私なりの拡大解釈や意訳が含まれることをあらかじめご了承下さい。

ひろさんは、この肉体人間の五感で認識できるものも、できないものをも含めて、あらゆる世界を含めたもの、そのよって来るものを宇宙の真理とする。

そして、その宇宙の真理から、たまたま(?)肉体人間としてこの世に、この地球上の物質世界に遣(つか)わされたその人が、お釈迦さんだとする。

お釈迦さんは、2,500 年ほど前に、この世を生きた人間であり、修行を重ねて悟りを開いて、阿羅漢となって、この世の煩悩を超越して、真理を悟った仏陀ではあるけれども、他の仏陀とされる者とは違う。

他宗(他の宗教)の仏陀やお釈迦さんのお弟子さんで悟りを開いて仏陀となった者とは違う。

お釈迦さんは、あくまでも、宇宙の絶対なる真理から来たメッセンジャーとしての、私達在家のものをも含めた(ひろさんの言葉を借りると)有象無象とは一線を画した存在である。

仏陀は、この世には、あくまでも、お釈迦さん、その人、たった一人しか存在しなかったのであり、お釈迦さんは、阿羅漢として他のいかなる者とも隔絶した超絶仏陀なのであり、絶対不可侵の存在であり、尊い信仰の対象者なのである。

だから、その教えとしての権威のある仏教は絶対であり、形而上学的にも(?)絶対に信じるに値する教えである。

このようにお釈迦さんを捉(とら)えた場合には、お釈迦さんは、ごく普通にこの世に生を受けて、悟りを開き、たくさんのお弟子さんを導いた肉体人間としての阿羅漢仏陀ではなくて、つまり、小乗仏教仏陀ではなくて、大乗仏教の特別な唯一無二の仏陀としての存在である。

つまり、言い方は悪いが、肉体人間一般とお釈迦さんを、明確に区別して捉えているがゆえに、差別しているとも言える。

こうして、お釈迦さんを唯一無二の特別仏陀として祭り上げて、お釈迦さんは、ソクラテス孔子などとは違う、別格の存在だから、他の宗教や哲学といった教えとは違うのだ、とする。

ソクラテス孔子などの思想家は、あくまでも地球的真理を説いた者に過ぎず、お釈迦さんのような仏教という宇宙的真理を説く者ではないのである。

だから、ひろさんは、お釈迦さんのことを、宇宙の絶対真理から遣わされたところの宇宙仏、釈迦仏などと呼ぶ。

大乗仏教の経典にある、唯物論の常識からは、到底理解することのできない、摩訶不思議で、奇妙奇天烈な話も、お釈迦さんが、他の(ひろさんの言葉を借りれば)有象無象とは明らかに異なる、絶対真理・絶対宇宙から遣わされた特別な肉体人間なのだから、まあ、かまわないだろう(?)。

私(←ひろさんのこと)は、大乗仏教徒として、このような宇宙仏のメッセンジャーとしてのお釈迦さんを描きたいのである。

以上が、ひろさんのお釈迦さんに対する理解の仕方です。

このひろさんのソクラテス孔子などといった思想家の地球的真理を説く教えが、間違いを必ず(?)含み、同列に扱う限り、私達は仏教を信じることができなくなるのだ、と頑(かたく)なに決めつけるひろさんのお考えが、どうにもよくわからないが、まあ、仕方ないだろう。

私には、このように考えるのは、教条主義に陥るようにしか思えないんだけどね。

前後を読む限りでも、お釈迦さんの在世当時、インドだけでも、仏教一色に染め上げることができなかった一事をもってして、このように決めつけているとしか、読み取れなかったからだ。

以下は、個人的な解釈です。

肉体人間は、神様の分け与えられたお命を頂いて生かされている存在である。

自ら生きたいと思って生きているのではない。

なぜならば、肉体の心臓の拍動や肺臓の呼吸も、その他の内分泌代謝を担う身体の器官も、睡眠時にその働きが休まることはなく、無意識に働いていてくれているものだからだ。

だから、自らの意志で、いちいち命令を下して、これらの身体の器官を働かせているのではなくて私達はこうして生きている、すなわち、生かされていることになるのである。

肉体があるから、生きているのならば、その何らかの肉体に対する働きかけ、すなわち、神様のお命を頂いていることによる働きかけがなくなってしまえば、つまり、魂が抜けてしまえば、肉体は物質にかえり、身体のあらゆる器官は、その働きをやめて、物質に帰り、次第に干からびていくことになる。

これが、肉体人間の死だと考えられる。

従って、肉体人間は、神様のお命を頂いて生かされている点では、あくまでも平等だ。

ただ、その魂の輪廻転生を通した鍛えられ方や、魂の古さ、大きさ、分割や結合の違いがあるので、その肉体人間としてのあらわれは、千差万別に分かれている。

それぞれに個性を持ち、誰一人として同じ性格を持つ肉体人間がいないのは、このためだ。

つまり、神様のお命を頂いて生かされているという点では、私達の本質は変わらない、神様の子供としては、霊魂魄として霊的には、兄弟姉妹の関係にあるのである。

どんなに、過去世から溜め込んである因縁のために、憎み合い、対立し合い、反目し合うことがあっても、本質は一緒になのだ。

ひろさんは、お釈迦さんを宇宙仏、宇宙の真理がもたらしたメッセンジャー、唯一無二の仏陀だと呼んだ。

これを、私の考えに当てはめて言い換えれば、宇宙の真理とは、神様のことであり、神様がこの物質地球世界を開発して、この物質地球世界に、この世に、神様の世界である神界を映し出すために、それも、何度も何度ももの輪廻転生を繰り返しながら、派遣されてきているのが、私達肉体人間である、ということになる。

だから、お釈迦さんだろうと、ソクラテスだろうと、孔子だろうと、私達だろうと、その本質は変わらない。

ただ、各々のたくさんの輪廻転生を通した過去世を通したの魂の生き方、想いと行いの積み重ねといった研鑽の具合により、天命として神様から授けられた働きという格に違いが生じてくる。

お釈迦さんは、いくつもの過去世を通してそれなりに魂を磨き上げ、この世でお釈迦さんとして悟りを開き、たくさんの人々を教え導くことを、神様から天命として授かる、いわば、宿命づけられた人ということになる。

私なりに解釈すれば、宇宙の真理は、神様のこと。私達は、どんなに小さな存在(?)のように思えても、それぞれに明確に違う個性を持ち、神様からそれなりの天命を授けられている者ということになるのである。

上記のように、私達が生かされていることは、唯物論で考えれば、説明ができない奇跡のような現象だ。

だから、この世に生まれてくるというのは、デキ婚だろうと何だろうと、やはり、神様の何らかの働きかけ(おそらく、守護神さんと自らの魂の働きかけ)があって、なされるものであって、奇跡のようなものである。

従って、過去世で、たくさんの真善美に悖る悪い想いと行いの業想念を溜め込んでしまった者は、これまた、たくさんの輪廻転生を通して、業想念を償いながら、天命を果たしていくことになるだろうし、お釈迦さんのような天命の人は、ああしたたくさんの人々を教え導き、しかも、後世にわたってかなりの教えや影響を及ぼすべく生まれた人であり、あのような形で、輪廻転生を卒業した、つまり、解脱をした人ということになる。

以上を、どのようにお感じになるかは、お読み頂いた方次第です。

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追記: 2021/11/19 15:07
〜訂正内容〜

本文を加筆・訂正しました。