おぶなより

世界平和の祈りに寄せて

635_ひしみー057

06 「出世間(しゅっせけん)」をした沙門(しゃもん)ガウタマ

・欲望の充足は問題解決にならない

お釈迦さんの出家の動機としてひろさんのあげていた 2 つのこと、すなわち、
1.諸々の欲望をかなえるためではないこと、
2.出離は安穏だということ、
について、書いてあった。

まあ、私的にまとめさせてもらえば、
要は、
肉体人間の五感にまつわる各種の欲望、そして、
さらに加えて名誉欲や権勢欲、
他人に認められたい、という
渇いた自己承認肯定欲(長くなるので以下はすべて五感にまつわる各種の欲望であらわすものとする)
といった、
あらゆる欲望を離れ去ることができれば、
こうした諸々の欲望の燃え盛る炎を、
滅却しきった境地、
すなわち、
涅槃の境地に至ることに話を持っていきたいんだろうと思いますね。

以下は、例によってひろさんの考え方に対する私の曲解や意訳や改変などがあるが、あらかじめご承知置き頂きたい。

で、ひろさんは、欲望は世間に属するから、その解決(欲望を適度に抑制するか、または、欲望を滅却する意味か?はっきり書かないと話が進めにくくて困るんだけど)をするためには、世間から離れることが必要だ、それが出世間だとしている。

欲望は世間に属するとはどういう意味か?

ひろさんは、世間というかかわり合う人達を意識した、主体的ではないところの、金銭欲や物質欲や名誉欲などのことだけを書いているが、私は王家の窮屈さから来る自由の制約をなくしたい欲望までもが含まれると考える。

まあ、とりあえずは、欲望をひろさんのお考えのように、各種のあまり上品とは言えない世間の下世話な欲望としておく。

そして、ひろさんはユダヤのジョークを例にあげて、欲望を満たすだけでは人は幸福にはならないことを書いているのだが、大変失礼ながら私はこの話は不適切な内容を含むと思うので省かせてもらう。

その代わりに、ひろさんのいうきわめてわかりにくい言い回しを変えて意訳したい。

要は、人は欲望を満たすだけでは飽きたらないことがあり、あくまでもかかわる他人との比較において自らが少しでも優位になるような形でないと、真に欲望は満たされないことがある。

欲望は、自己満足では足りない場合があり、他人との欲望の満足水準の比較で上をいかなければ満足できない側面を取りあげて、ひろさんは、その抑制の難しさを表現したいのだろう(それがはっきり書いていないからわかりにくいのだが)。

世間とかかわり合い、他人との比較が必ず視野に入る以上、欲望を自分で我慢するような抑制だけでは、欲望に引きずり回され、右往左往する乱れた想いを制御することは、もはや不可能なのだ、と。

ということは、欲望を満足できる水準まで満たすことができても、他者比較が関係してくる以上、欲望の満足水準自体も常に変動を余儀なくされ、流動的で欲望を抑制する基準にはなり得ない。

そこで出されている結論は、ならば、欲望そのものを取っ払っちまえ、って話ですね、これは。

なお、ここでは当然のことながら、欲をかかないために生きることをやめることは、一切想定されていない。

前後の文章を読む限りでも、これは明らかに想定外だと読み取れる。

ならば、生きながらにして、欲望そのものを捨てる、五感にまつわる欲望という肉体人間が固有に抱くとらわれを放つより他はないことになる。

それがひろさんの本では、おおよそ以下のように書かれている(改変・省略あり)。

・・・そうすると、おわかりになりますよね。
私達は欲望を満たすことだけでは幸福にはなれない。
つまり、欲望の充足は問題解決ではない。
では、どうすればいいのか?
(ここで、ひろさんは、以下のお釈迦さんの言葉を引用している。)

つまらぬ快楽を捨てることによって、広大なる楽しみを見ることができるのであるなら、心のある人は広大な楽しみを望んで、つまらぬ快楽を捨てよ。
この世における愛欲の楽しみと、天上における楽しみとは、愛執を滅ぼした楽しみの 16 分の 1 にも及ばない。
重い荷物を捨てた後には、荷物をさらに引き受けるな。
荷物を引き受けることは最上の苦しみである。
荷物を投げ捨てることは楽しい。
(ウダーナヴァルカ) (第 30 章 楽しみ)(30ー32) (中村元訳)

ダーナヴァルカ(30ー32)にある釈迦の言葉である。悟りを開いて仏陀となった釈迦の言葉だ。(*)
「この世における愛欲の楽しみ」も「天上における楽しみ」も、ともに世間に属する欲望を満たすことである。これによっては究極的に幸福にはなれない。
私達は「愛執を滅ぼした楽しみ」を求めて、「重い荷物を捨て」なければならない。すなわち、「出世間」である。
それが問題解決である。
沙門ガウタマは、ビンビサーラ王と出会った時点で、すでに問題解決への方向づけを知っていた。
「出離は安穏である」といった言葉は、よく(物事の)本質を衝(つ)いている。
仏教は出世間の教えである。
そうすると、やはり彼(=お釈迦さんのこと)は宗教的な天才であった訳だ。

~~~~~

(*)ウダーナヴァルカは、「感興のことば」で、章が 33 章もあり、ここでひろさんの引用した部分がどの中に入っているのかを明示していないので、(30ー32)とされていても、どの章から引用しているのかがわからず、非常に不親切である。お陰で探すのにかなり手間取らされた。
不親切きわまりない。

しかも、この、
ブッダの真理のことば・感興のことば
中村元訳 岩波文庫
には、「天上における楽しみ」についての、中村さんの注釈が書かれていない。

だから、「天上における楽しみ」は、何を指しているのか、残念ながら私にはわからない。

おおよその想像はつくが、いい加減なことは書けないので、お知りになりたい方は、ご自分でお調べ下さりますようお願い申し上げます。

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追記: 2021/12/31 14:33
〜訂正内容〜

本文を加筆・訂正しました。