おぶなより

世界平和の祈りに寄せて

634_ひしみー056

06 「出世間(しゅっせけん)」をした沙門(しゃもん)ガウタマ

・欲望の充足は問題解決にならない

お釈迦さんの出家の動機としてひろさんのあげていた 2 つのこと、すなわち、
1.諸々の欲望をかなえるためではないこと、
2.出離は安穏だということ、
について、お書きになっています。

以下は、ちょっと脱線した話になるので、仏教以外のことに興味がない方は、飛ばして下さい。

すみませんね。

ひろさんは、ここから欲望を満たすことが、心の平穏(要は、涅槃、悟りの境地を念頭に置いているのだろう)を得られる訳ではない、と話を展開していく。

しかし。

やっぱり、これは男の傲慢な哲学や宗教といった思想に陶酔しやすい傾向というか癖を感じない訳にはいきませんね。

なぜならば。

お釈迦さんは、小規模ながらも(?)一国一城の主で、もちろん、両親も妻も子供(または妊娠中の子供)もいて、取り巻きの関係者はもちろんのこと、たくさんの利害関係者に対しての責任がある人です。

ましてや、聡明で、宗教的にも天才的な素養を持った人なのだから、小規模ながらも(?)国をよく治めて、なろうことなら、さらに発展させることを周囲からかなり期待されていたはずです。

いくら異母弟のナンダに期待ができて、自分がいなくなってからも、何とかなるだろうと目星がついていた(?)にしてもやはり、無責任の謗りは免れませんね。

何が言いたいかというと。

ひろさんをはじめとする、お釈迦さんを信奉する人は、お釈迦さんの特殊で高邁な理想を実現するための出家ばかりに気をとられて、あるいは、既得権益(?)を捨て去ったことばかりに重きを置いて、残された周囲の関係者の嘆き、悲しみ、憤り、その他諸々を軽視する嫌いがあるように読めて仕方がないんですよ。

つまり、ささやかな家族の幸せや小規模ながらも(?)幸せな国づくりを投げ出したことを軽視している、ということです。

私にはね。

私は決してフェミニストではないし、フェミさん達は大嫌いですけどね。

お釈迦さんが、高尚な悟りを得ること、そして幾多の人々をやがて導くこと、そして大乗仏教という時空間を越えてたくさんの人々に影響を与えたことを重視して、これらに陶酔するあまり、世捨てならぬ、家族捨て、国捨てを、すっ飛ばして軽視する嫌いを感じるんですよ。

だから、ひろさんも、家族捨てや国捨ての話は軽く済ませて、欲望、欲望、と肉体人間の五感にまつわる欲望を放つことにすぐに興味が移っている。

欲望は世間にかかわるものだ、とか、快楽を捨てて、広大な楽しみを得る云々といった話に重点が移っている。

お釈迦さんは、実の叔母さん(母親の実の妹)に幼少期から育てられてきているとはいえ、実の母親をすぐに失ってしまっている喪失感が、それなりに彼の気持ちに影を落として、物思いに耽りやすい少年として影響していたのではないですかね。

生まれてから幼少期までの母親と子供の関係はかなり大切らしいですからね。

それゆえに、人一倍哲学や世のあり方に思いを至らせる傾向が強い人だったのではないですかね。

そこに、元々の彼の過去世を通して積み重ねた修行の賜物としての宗教的な天才としての要素も加わって、最終的には出家の決断に至った。

これは、個人的な勝手な推測ですけれど、お釈迦さんが悟りを開いてから寿命をまっとうするまで、 45 年間も人々に人生を捧げ尽くした中には、多少の捨てた家族や国に対する罪滅ぼし的な気持ちも含まれていたのではないですかね?

お釈迦さんの人柄からして、人々に偉大な教えを示したのだから、あとはすべてを犠牲にしてもかまわない、なぎ倒す、なぎ倒して無視してもかまわない、ゆるされる、ということはなかったと思うんですよ。

結果的にたくさんの人々を教え導き、救いもしたけれど、やはり、捨てた家族や国に対してのあがないをしないではいられない気持ちがどこかにあったのではないか、と思うんですよ。

たとえ、彼特有の神通力で、いずれ釈迦国は滅びる定めにあることはわかっていたにしても。

という訳で、本題の欲望というとらわれを放つ話の前に余談でした。

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追記: 2022/01/07 12:59
〜訂正内容〜

本文を加筆・訂正しました。

最上段の方で、
仏教以外のことに興味がない方は、飛ばして下さい
と書くべきところを、
仏教のことに興味がない方は、飛ばして下さい
と正反対の意味に書き間違えていました。

要は、仏教以外の話になるので、仏教にだけ感心のある方は、飛ばして下さい、というお願いでした。

何とも表現がまずかったです。

申し訳ございません。
お詫びとともに訂正させて頂きます。