643_ひしみー064
06 「出世間(しゅっせけん)」をした沙門(しゃもん)ガウタマ
・政治からの誘惑を受けた釈迦
前回( 642_ひしみー063 )の続きです。
ただし、これまで以上に多分に個人的で勝手な独断と偏見が含まれるので、その点はあらかじめご了承下さい。
政治は世間の最たるもの。
世間の集合体の中でも、個人や組織の利害や権勢欲や名誉欲が最も入り乱れ、錯綜する政治に身を置いたり、かかわっていたら、とてもではないが、執着という肉体人間としての人や物に対する想いというとらわれを解き放つことはできない。
お釈迦さんのケースで言えば、まずは、(ひろさんはここには明記していないが)悟りへの第一歩を踏み出すために、家庭や王家や国家とそれに諸々に付随するあらゆるものから離れて、執着を解き放とうと出家したのに、再びこれよりもはるかに多い執着をもたらす政治にはかかわらることは努めて避けるのが、ある意味当然と言えるだろう。
しかし、だからといって、本当に政治に無関心・無関係を決めつけてもよいものですかね?
宗教、そして宗教者は、本来なら人間のより良きあり方を求めるもの。
ならば、この人間がより集まった組織にも当然人間としてのより良きあり方を反映した形が、理想としては出来上がらなければおかしいはずです。
個人や小規模な宗教組織を政治から隔絶することは、こうした理屈からすれば、おかしいと言わなければならないんじゃないですか。
とは言うものの。
やはり、仕方ありませんね。
個人個人、たった一人でさえも簡単には悟りを開くことができないのに、それが多人数になったら、到底、悟りは開けませんよ。
悟りを開いた組織があるとしたら、お釈迦さんはじめ、悟りを開いたお釈迦さんの直弟子の人が先達となった教団そのものになってしまいますからね。
教団の人々が直に政治に携わるのは、無理でしょう。
利害関係や欲得が錯綜する政治に携わったら、たちまち、悟りの境地、涅槃の境地から脱落してしまいますよ。
せっかくの努力も水の泡になって、業想念だらけの普通の肉体人間に逆戻りになってしまいます。
なので、正真正銘の神権政治のようなものでない限りは、神様のみ心に沿うような政治はできない。
そのためには、政治に携わる者は周辺までをも含めて、すべて悟りを開いている者か、これに匹敵する霊性の持ち主でなければ、政教一致を実現する訳にはいかない。
従って、こうした状況が実現するための社会の下地が整うまでは、政教は分離しておかざるを得ないでしょうね。
過去の歴史において、宗教(と思想)がどれほど、恣意的な絶対強権支配の道具として使われ、どれほどの悲劇が繰り返されてきたかを振り返れば、これは明らかなんじゃないですか。
世の中を構成する人々の霊性の水準が高くならない限り、宗教者は、政治とはそれなりの距離を置く。
まるっきりお話にならない段階ならば、基本的には関与せず(ノータッチ)。
こういうことなんじゃないですか?
なお、なぜここで、それなりに距離を置く、基本的には関与せず、としたのかについては、ひろさんの書いていたことも併せて、次回に書きます(もったいつけるのではなくて、ちょっと長めになりそうなので)。