06 「出世間(しゅっせけん)」をした沙門(しゃもん)ガウタマ
・欲望の充足は問題解決にならない
このあと、ひろさんはイエスさんとお釈迦さんを対比させて、まあ、何となく(?)無政府的な(?)話やら何やらで、出世間と結びつけ、さらに次の章( 07 禅定と苦行、そして中道 )の禅定+戒律+智慧(?)で、悟りに向かう体勢づくり(?)に結びつけたいのかどうかわからないけど、とにかく、宗教と政治を分けたいようだ。
おそらく、政治とは深くかかわらないことが、個人としての出世間のあり方に結びつくとお考えなんでしょうね。
で、次の節( ・悪魔から誘惑されたイエス )の出だしは、こうなっています。
またしても、脱線をする。釈迦とイエスを比較したい。
イエスは・・・。
そんな訳で、ひろさんの節の順番に従わないで、勝手にまとめようかな、とも思うので、ちょっと保留します。
まあ、きわめておおざっぱに、個人的なことを言わせてもらえば、国を構成するあらゆる人々の霊性が、まだまだ未開発で唯物論の思考が支配的である限り、政治と宗教は分けておいた方が無難だと考えたんじゃないですかね、イエスさんとお釈迦さんのお二人は。
そうは、はっきりとは言っていないし、ひろさんの本からもまったくそんなことは読み取れませんけど。
まあ、勝手な私見です。
ちょっと、書こうか飛ばそうか考えます。