642_ひしみー063
06 「出世間(しゅっせけん)」をした沙門(しゃもん)ガウタマ
・政治からの誘惑を受けた釈迦
前回( 641_ひしみー062 )の続きです。
仏教はアナキズムだとする、以下のひろさんの三段論法の話の続きです。
①仏教は出世間だ。
→②政治は世間そのものだ。
→③だから、仏教は出政治(?)なのだ、
すなわち、出政治(?)=アナキズムなのだ。
以下、いくつかに分けて考えます。
1.仏教が出世間であるとは何か?
まずは、世間とは何か、が問題となる。
世間は、個人的な肉体人間として(原則として)避けることのできない老・病・死という肉体にまつわり悩みや苦しみを生じる元になる諸々のことを、まずは取り上げることができる。
つまり、肉体人間が生きていくに当たって、どうしても生活していく上で避けることのできないあらゆる事柄ですね。
そして、たった一人の孤独で生きるよりも、家族を持つなど、かかわる人が多くなるに従って、老・病・死もさらに複雑な様相を呈していくことになる。
つまり、家族としての楽しみも増えるかもしれないが、さらにいろんな関係が錯綜して、老・病・死にかかわる煩(わずら)わしさが確実に増えてしまう訳です。
だから、自分の老・病・死への肉体的な悩みや苦しみといったとらわれを完全に放つことは難しいにしても、とりあえず家出をすれば、家族とのかかわりを断つ、そうして身の回りの関係を減らすことで、間違いなく肉体にまつわる苦しみ、しかも周りの者も巻き込んでの煩わしい苦しみは、減らすことができる。
だから、まずは、出世間の始まり、はじめの一歩として、まずは家出をしたんでしょうね、お釈迦さんは。
もちろん、いちいち家族と相談したりしたら、家出を引き留められたり、説得されたり、果てはケンカまでに発展する(お釈迦さんはケンカはしない=避けると思うけど)可能性があるから、周囲の一切に無断で(御者チャンダカ 1 人だけを引き連れ)プイとお城を出ていった可能性があります。
なので、お釈迦さんが恐妻家云々という話よりも、お釈迦さんとしては、口には決して出さなくても、家族や小規模ながらも自らの家族や国といった周囲への責任を放り出した申し訳なさの方が、むしろ多くあったんじゃないですか?
ただ、後々の悟りを開くための解脱まで視野に入れて考えると、厳しさというか峻厳さは避けられず、これも肉体や家族などに関係したとらわれの一つになるので、どうしても振り切らない訳にはいかなかった。
お釈迦さんの家出は、本当はこうした感じが実際のところだったのではないか、と個人的に勝手に考えています。
私は、生まれ出でて間もなく母親に死なれたせいか、お釈迦さんが物思いに耽りやすい青少年であったことも踏まえると、一般的な仏教好きな方々のように、彼が家族や周辺への未練を格好よく(クールに?)断ち切ったようには、どうしても思えないんですよ。
いくつかの仏教関係の本を読む限りでは、どうも、お釈迦さんがこともなげに家族や国を捨てたことを、あまり重く扱わないのが一般的なように見えるんですよね、私には(フェミニストではない私でさえもこのように感じるという意味合いです)。
けど、これは違うんじゃないか、と思うんです。
とにかく。
仏教が出世間であるといった意味合いには、まず最初に手近な自分自身に近しいところから、利害関係を生じるあらゆるものを、それにまつわり生じる「とらわれ=執着」を放していく。
これが、お釈迦さんの、仏教の出世間の出発点(スタート)としてあった。
これを、お釈迦さんの身勝手な(?)出家に見ることができる、ととらえることができると言えます。
お釈迦さんが、自らの出家についてマガダ国のビンビサーラ王に語ったとされる、きわめてわかりにくい言い回しである、「出離は安穏である」は、このような意味にとらえるべきだと考えます。
2.外部的(主に対外的)な欲望の達成について
もう 1 つのビンビサーラ王への応答で語られたきわめてわかりにくい言い回しである、「出家は欲望をかなえるためではない」について考えます。
この応答の台詞(セリフ)は、ビンビサーラ王の破格の待遇でのマガダ大国への仕官の口を断ったものだから、大国の大臣級の絶大な権限と、あらゆる政策を思うがままに実行に移すための裁量、そしてそうした高い地位に相応の富と財力の保証を、あっけなく、袖(そで)にした、要(い)らない、と誘いを蹴(け)った訳ですね。
だから、この場合の欲望は、対外的な自己実現の一環としての拡張的な欲望ですね。
お釈迦さんは、あの応答で、こうしたものは求めない、と言った訳です。
上記のビンビサーラ王に対するお釈迦さんが応えての台詞(セリフ)、
「出家は欲望をかなえるためではない」
は、このように解釈すべきであると考えます。
しかし、これをさらに一般化して、大きく考えるために、欲望の範囲をひろげます。
つまり、対内的なものまで含めるということです。
例えば、妻を愛する精神的な欲望、神様の子供同士の男女の愛情の交歓としてのものではない妻の体だけを求める(セックスの)欲望、両親の自分に対する思いに従うよりも、両親を自分の思い通りにさせたいという欲望、子供を自分の思うままにさせたいという欲望、小規模ながらも、王家としての様々な窮屈な格式やしがらみから逃れたいという欲望、などをも含めるということです。
こうした対内的な欲望も、やはり、肉体人間の五感にまつわる欲望にかかわるものと言えます。
つまり、欲望の対象として、執着を生じる対象な訳です。
対内的にも、対外的にも、肉体人間の五感にまつわるあらゆる各種の欲望のとらわれ=執着、を解(と)き放つ。
これが、総合的に見て、出世間の内容になるはずです。
家族などの身の回り、そしてさらに小規模な社会、さらには国家と、対内的にも対外的にも、とらわれを放つ対象となる肉体人間の五感にまつわる欲望(もちろん、権勢欲や名誉欲も含みます)は、規模が大きくなれば、大きくなるほど、際限なく増えていくことになります。
だから、対外的にも、対外的にも、すべての肉体人間の五感にまつわる各種の欲望という無限に近い欲望にかかわるとらわれを放つためには、一切の関係性を断(た)ち切る必要がある。
この、あらゆる欲望に対するとらわれを放つことが、悟りの境地、涅槃の境地には必要だから、これが仏教の教えの中核をなしている、といいたいがために、仏教は出世間であり、より端的には、出政治(?)である、と言いたいものと考えられますね。
しかし。
やはり、ちょびっと続きがあるので、あと少しの分は、次回=後日に分けます。
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・世間~せけん~①人がかかわりあっている場としての世の中。また、世の中の人々。
(用例)世間の口がうるさい。世間を騒がす。
②自分の交際・活動範囲。
(用例)世間が広い。
③(仏教語)人や動物などの生き物と、それが生活する世界。
ここでは、①の意(③じゃないみたい)。
・錯綜~さくそう~物事が複雑に入り組むこと。
(用例)利害関係が錯綜する。
・御者~ぎょしゃ~馬車に乗って馬をあやつる人。
・峻厳~しゅんげん~非常にいかめしく、厳しいこと。また、そのさま。
(用例)峻厳な顔つき。峻厳な山容。
・厳めしい~いかめしい~威圧感を与えるような威厳がある。おもおもしい。
(用例)厳めしい門構え。
・山容~さんよう~山の形。山の姿。
(用例)雄大な富士の山容。
・出離~しゅつり~(仏教語)迷いの境地や俗世を脱して悟りの境地に入ること。出家すること。
・安穏~あんのん~変わったこともなく穏やかなこと。平穏。
(用例)安穏に暮らす。
・袖にする~冷淡に扱う。邪魔にして顧(かえり)みない。
ー お詫び ー
すみません。
誤って下書きに戻すボタンを押して一旦あげていたこの文章を消してしまいましたので、再度、上げます。
失礼致しました。