おぶなより

世界平和の祈りに寄せて

686_ひしみー107

08 天魔よ、汝は破れたり

・天魔の軍勢に勝利した沙門ガウタマ

前回( 685_ひしみー106 )の続きです。

前回の末尾に、お釈迦さんの悟りを邪魔しようとする悪魔(ひろさんの言葉だと天魔)の様子が、スッタニパータ( 四二五 ー 四四九 )に出ているとあるが、ひろさんのご本には、詳しい内容は書かれていない。

大まかに触れてあるだけなので、とりあえず、この部分を中村さんの訳で見てみる(改変あり。漢数字も見づらいので、これを便宜上アラビア数字(算用数字)に直す)。

スッタニパータ
第三 大いなる章
二 つとめはげむこと

425) ネーランジャラー川( 680_ひしみー101 などに書いた尼連禅河のこと)のほとりにあって、安穏を得るために、つとめはげみ専心し、努力して瞑想していた私(わたくし)(←お釈迦さんのこと)に、

426) (悪魔)ナムチはいたわりの言葉を発しつつ近づいてきて、言った、


「あなたはやせていて、顔色も悪い。
あなたの死が近づいた。

427) あなたが死なないで生きられる見込みは、千に一つの割合だ。
君よ、生きよ。
生きた方がよい。
命があってこそ諸々の善行をなすこともできるのだ。

428) あなたがヴェーダ学生としての清らかな行いをなし、聖火に供物(そなえもの)をささげてこそ、多くの功徳を積むことができる。
(苦行)につとめはげんだところで、何になろうか。

429) つとめはげむ道は、行き難く、行い難く、達し難い」


この詩を唱えて、悪魔は目ざめた人(ブッダ)(←お釈迦さん)の側に立っていた。

430) かの悪魔がこのように語った時に、尊師(ブッダ)(←お釈迦さん)は、次のように告げた。


「怠け者の親族よ、悪しき者よ。
汝は(世間の)善業を求めてここに来たのだが、

431) 私(わたくし)にはその(世間の)善業を求める必要は微塵もない。
悪魔は善業の功徳を求める人々にこそ語るがよい。

432) 私には信念があり、努力があり、また智慧がある。
このように専心している私、汝はどうして生命を保つことを尋ねるのか?

433) (はげみから起こる)この風は、河水の流れをも涸(か)らすであろう。
ひたすら専心しているわが身の血がどうして枯渇しないであろうか。

434) (身体の)血が涸れたならば、胆汁も痰も涸れるであろう。
肉が落ちると、心はますます澄んでくる。
わが念(おも)いと智慧と統一した心とはますます安立するに至る。

435) 私はこのように安住し、最大の苦痛を受けているのであるから、わが心は諸々の欲望にひかれることはない。
見よ、心身の清らかなることを。

436) 汝の第一の軍隊は欲望であり、
第二の軍隊は嫌悪であり、
第三の軍隊は飢渇であり、
第四の軍隊は妄執といわれる。

437) 汝の第五の軍隊はものうさ、睡眠であり、
第六の軍隊は恐怖といわれる。
汝の第七の軍隊は疑惑であり、
汝の第八の軍隊は見せかけと強情と、

438) 誤って得られた利得と名声と尊敬と名誉と、また自己を誉め称えて他人を軽蔑することである。

439) ナムチ(←悪魔のこと)よ、これらは汝の軍勢である。
黒き魔の攻撃軍である。
勇者でなければ、彼に打ち勝つことができない。
(勇者は)打ち勝って楽しみを得る。

440) この私がムンジャ草を取り去るだろうか(敵に降参してしまうだろうか)?
この場合、命はどうでもよい。
私は、破れて生きながらえるよりは、戦って死ぬ方がましだ。

441) ある修行者達・バラモンどもは、この(汝の軍隊)のうちに埋没してしまって、姿が見えない。
そうして徳行ある人々の行く道をも知っていない。

442) 軍勢が四方を包囲し、悪魔が象に乗ったのを見たからには、私は立ち迎えて彼らと戦おう。
私をこの場から退けることなかれ。

443) 神々も世間も汝の軍勢を破り得ないが、私は智慧の力で汝の軍勢を打ち破る。
焼いていない生の土鉢を石で砕くように。

445) 彼らは、無欲となった私の教えを実行しつつ、怠ることなく、専心している。
そこに行けば憂えることのない境地に、彼らはおもむくであろう」


446) (悪魔は言った)、


「われは七年間も尊師(ブッダ)(←お釈迦さん)に、一歩一歩ごとにつきまとうていた。
しかもよく気をつけている正覚者(しょうかくしゃ。お釈迦さんのこと)には、つけこむ隙を見つけることができなかった。

447) 烏が脂肪の色をした岩石の周囲をめぐって
「ここに柔らかいものが見つかるだろうか?
味の良いものがあるだろうか?」
といって飛び回ったようなものである。

448) そこに美味が見つからなかったので、烏はそこから飛び去った。
岩石に近づいたその烏のように、われらは厭(あ)いてゴータマ(ブッダ)(←お釈迦さん)を捨て去る」


449) 悲しみに打ち萎れた悪魔の脇から、琵琶がパタッと落ちた。
ついで、かの夜叉は意気消沈してそこに消え失せた。

で、これについてのひろさんの当項目
・天魔の軍勢に勝利した沙門ガウタマ
の後半に書かれているお話はおおむね以下の通り(改変あり)。

まず、沙門ガウタマ(←お釈迦さん)は、
「悪魔は、功徳を求めている人々を相手にすればよいのだ」
と喝破(かっぱ)している。

私達の行いは、何か見返りを求めてするものだ。人に親切にするのは感謝を、受験勉強をするのは大学合格という見返りを、それぞれ期待している。

「功徳を求める」とは、このようなことだ。

沙門ガウタマが中道を歩む時、彼は一切功徳を求めていない。

「天魔よ、お前が誘惑できるのは、功徳を求める人々であって、私にはお前の囁(ささや)きは通じないよ。
お前が相手にすべきは、功徳を求める人々だけだよ」

彼(←お釈迦さん)は、そう天魔に言うのである。

そして、さらに彼は、次のように言う。

「欲望は汝の第一軍だ。

嫌悪は第二軍、
飢渇は第三軍、
渇望は第四軍だ。

無気力は第五軍、
恐怖が第六軍、
疑惑が第七軍だ。

汝の第八軍は、ごまかしと頑迷と、利得と評判と栄誉と、不当な名声と、自賛毀他がある。

ナムチよ、黒魔よ、これらが汝の戦闘部隊だ」

なお、ナムチは、インドのバラモン教の「リヴ・ヴェーダ」に登場する天魔であり、黒魔(黒き魔)は、ナムチの別名。
また、別の仏典では、天魔を「パーピマン」と呼んでいる。これは、「悪しき者」の意。

ひろさんによると、このような天魔の分析は面白いそうだ。お釈迦さんは、天魔の戦闘部隊と戦い、その一つ一つを撃破して、最後に「成道」という勝利を得たとしている。

ただし、ひろさんは、注意をしておくべきことがあると言う。

それは、降魔成道が天魔を無条件降伏させるものとは異なるということ。

天魔は、てっきり引き下がったかのように見えて、なおも時々姿を現す。

ゆえに、お釈迦さんの成道以後も、仏陀となったお釈迦さんの前に時々その姿を現して、お釈迦さんに囁きかける。

そして、お釈迦さんは、その都度、その都度、天魔の誘惑を斥(しりぞ)けている。

これらから、ひろさんは大体以下のように結論づけている。

お釈迦さんは、天魔の軍勢を根こそぎやっつけて武装解除したのではなく、それ自体ができないことだ。

ならば、私達としては、天魔の軍勢と徹底的に戦い、それを根絶させようとしてはいけない。それはできないし、やろうとすれば結局は苦行になってしまうからだ。

私達としては、天魔の誘惑がある度に、その都度、その都度、これを斥けていけばいい。

それが、中道であり、仏教者としての生き方・行き方だ、とお思いになるとのこと。

なお、実は以前に、当項目について、
中村元さんの「原始仏典」(ちくま学芸文庫)( 155_原仏8ー5、156_原仏8ー6 )と、
佐々木閑さんのブッダ 繊細な人の不安がおだやかに消える 100 の言葉(宝島社)( 546_仏言葉ー079 ー 清らかな心身を求める )
について書いたところで触れているので、ご参考までに引用しておく(それぞれ改変あり。また、追記: ~ の細かな更新のただし書きはすべて削除してある)。

~~~~~

・安立
~あんりゅうか?
~安心立命の略か?
~字引載っておらず。
~中村さんのご本の注釈にも出ていない。

ちなみに。
・安心立命~あんしんりつめい~天命を悟って、生死利害を超越し、安らかな心を持つこと。安心立命((仏教語)あんじんりゅうめい・あんじんりゅうみょう)。

・喝破~かっぱ~(大声でしかりつける意から)誤りを説き破り、道理を言い切ること。
(用例)事(こと)の本質を喝破する。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

155_原仏8ー5

四 降魔

降魔。
ごうま。悪魔を降(くだ)す。
とうとう出ました。
悪魔の話です。

国語辞典では、降魔は、悪魔を降伏させること、と出ています。

神々のところでも感じましたが、これらは固有の意思と人格を持ち、あたかも人間のような形で、釈迦に対比、あるいは、対話する形で描かれています。

以前述べましたが、やはり、これらは、釈迦や周辺の人々の頭の中で作り出した想像上の産物としての存在か、話をつくるためのたとえとしての存在ではなく、固有の何らかの霊的な存在か、これに準じるもの、と考えるほうが自然だと考えられます。(注1)

ただ、釈迦の生まれてくることを、まるで、無邪気な子供のように喜んでいる神々の姿は、可愛らしく描写されているな、あまり、我は神であるぞよ、と威張った感じではないな、と思いましたが。

慈愛に満ちて落ち着いた感じとは、また、ちょっと異なるような。

それはともかく。

悪魔は、出家して修行中の釈迦を、悟りを開かせないよう、挫折させるべく、誘惑や(悟りを得た後には)脅しなど、様々な形で仕掛けてきます。

しかし、これを見事に退散させたように経典に描くことで、釈迦の偉大さを表現しているのでしょう。

正義の味方のようなヒーローものよろしく、釈迦の偉大さに彩りを加えるためには、悪役としての悪魔が必要、ということなのでしょうか?

わかりませんが。

言い方は悪いですが、いわば、釈迦の権威付けの脚色をするための存在として、悪魔は出てくる側面がある訳です。

修行によって、やせさらばえていく、健康を害するかのような釈迦の姿を見て、悪魔は誘惑にかかります。

そんなに、死にそうになるほど突き詰めて苦行しなくても、形式的なバラモンの祭祀を行って、これが(バラモンでは)善行とされているのだから、十分ではないか、生きていてこそのものだねだろう、と。(注2)

これが、スッタニパータの第四二五以下に出ています。

以下の通りです。

まずは、悪魔が釈迦を惑わすために近づくところから始まります。

ネーランジャラー河の畔(ほとり)にあって、
安穏を得るために、
つとめはげみ専心し、
努力して瞑想していたわたくしに、
(悪魔)ナムチはいたわりのことばを発しつつ近づいてきて、
言った。(注3)

(四二五ー四二六)

ネーランジャラー河は、釈迦が悟りを開いた場所で、ナムチは、インドのリグ・ヴェーダ以降にあらわれてくる悪魔の名前です。

「あなたは痩(や)せていて、顔色も悪い。あなたの死が近づいた。

あなたが死なないで生きられる見込みは、千に一つの割合だ。
きみよ、生きよ。
生きたほうがよい。
命があってこそ諸々の善行をなすこともできるのだ。」(注4)

(四二七)

善行は、ヴェーダの祭祀をすることで、功徳を積む意味です。

「あなたがヴェーダ学生としての清らかな行いをなし、聖火に供物(そなえもの)をささげてこそ、多くの功徳を積むことができる。
苦行に身をやつれさせたところで、何になろうか。

つとめはげむ道は、行きがたく、行いがたく、達しがたい。」

こう言って、悪魔は目ざめた人(ブッダ)の側に立っていた。
ところが尊師(ブッダ)は次のように告げた。

「怠け者の親族よ、悪(あ)しき者(悪魔の別称)よ。
汝(なんじ)は(世間の)善業を求めてここに来たのだが、わたくしにはその世間の善業を求める必要は微塵もない。
悪魔は善業の功徳を求める人々にこそ語るがよい。」

(四二八ー四三一)

つまり、福にあずかりたい(一般的な)人々には、世間一般に善とされていた、ヴェーダの祭祀儀礼を行うように語りかければいいだろう、私にはまったくその気はないのだから関係ないのだ、と。

「わたくしには信念があり、努力があり、また智慧がある。
このように専心しているわたくしに、汝はどうして生命(いのち)をたもつことを尋ねるのか?

このはげみから起こる風は、河水の流れをも涸(か)らすであろう。
ひたすら専心しているわが身の血がどうして涸渇(こかつ)しないであろうか。
(身体の)血が涸れたならば、胆汁(たんじゅう)も痰(たん)も涸れるであろう。
肉が落ちると、心はますます澄んでくる。
わが念(おも)いと智慧と統一した心とはますます安立するに至る。

わたくしはこのように安住し、最大の苦痛を受けているのであるから、わが心は諸々の欲望にひかれることがない。
見よ、心身の清らかなることを。」

(四三二ー四三五)

このように、釈迦は修行により、清らかなる心身を得ていく訳ですが、悪魔はあきらめずに、さらに様々な誘惑を仕掛けてきます。

長くなりましたので、この話は、次回に譲ります。

~~~~~

(注1)五井先生は、悪魔の存在は認めていないので、ここに出てくるような悪魔の存在は、さしずめ、迷った妄念の消えてゆく姿か、あるいは、肉体を持たない、キツネやタヌキやヘビといった、神性を有しない幽界の迷った生物となると思います。

(注2)祭祀~さいし~神を祭ること。祭り。祭典。

(注3)安穏~あんのん~(あんおんの連声)変わったこともなく、穏やかなこと。平穏。

連声~れんじょう~二つの語が連接するときに、前の音節の末尾の m・n・t が、あとの音節の母音・半母音に添加されて マ・ナ・タ 行の音となる現象。

雪隠 せついん setuin → setutin t追加
せっちん ア行→タ行

観音 かんおん kannonn → kannnonn n追加
かんのん ア行→ナ行

三位 さんい sani → sanmi m追加
さんみ ア行→マ行

因縁 いんえん inen → innen n追加
いんねん ア行→マ行

なお、中世の現象で、近世以後は固定した特定の語だけが残った。

(注4)中村さんの注釈によると、
「諸々の善行をなすこともできるのだ」

「諸々の功徳を積むこともできるのだ」
と訳すことができるとのこと。
修行者にとって「善行」とは、「功徳」を積むことに他ならないからだそうだ。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

156_原仏8ー6

155_原仏8ー5 の続きです。

それでも悪魔は、以下のようないくつかの軍隊と呼ぶ手下をよこして、釈迦を揺さぶろうとします。

第一は、欲望、
第二は、嫌悪、
第三は、飢渇、
第四は、妄執、
第五は、ものうさ、睡眠、
第六は、恐怖、
第七は、疑惑、
第八は、インチキな形で得た、利得、尊敬、名誉と蔑みによる軽蔑。

それは、釈迦によると、黒き魔の攻撃軍と呼ばれ、以下のようになっています。

「汝の第一の軍隊は欲望であり、
第二の軍隊は嫌悪であり、
第三の軍隊は飢渇であり、
第四の軍隊は妄執といわれる。
汝の第五の軍隊はものうさ、睡眠であり、
第六の軍隊は恐怖(他人に恐怖感を起こさせる)といわれる。
汝の第七の軍隊は疑惑であり、
汝の第八の軍隊はみせかけと強情と、誤って得られた(誤って得た場合にはまちがいを起こす)利得と尊敬と名誉と、また自己をほめたたえて他人を軽蔑することである。

ナムチよ、これらは汝の軍隊である。
黒き魔(Kanha)の攻撃軍である。
勇者でなければ、かれにうち勝つことができない。
勇者はこれらにうち勝って楽しみを得る。

このわたくしがムンジャ草を取り去るだろうか?(敵に降参してしまうだろうか?)」(注1)

終わりと一文のムンジャ草のくだりは、インドでは精神的に絶対に屈服しない強い意思のあらわれとされます。

「この場合、(わたくしにとって)命はどうでもよい。
わたくしは、敗れて生きながらえるよりは、戦って死ぬほうがましだ。」

(以上、四三六ー四四〇)

これは、インドでよくいわれる言い回しで、精神的な言い回しを指しています。

「或る修行者たち
バラモンどもは、この(汝の軍隊の)うちに埋没してしまって、姿が見えない。
そうして徳行ある人々の行く道をも知っていない。

軍隊が四方を包囲し、悪魔が象に乗ったのを見たからには、わたくしは立ち迎えてかれらと戦おう。
わたくしをこの場所から退(しりぞ)けることなかれ。

神々も世間の人々も汝(悪魔)の軍勢を破り得ないが、わたくしは智慧の力で汝の軍勢をうち破る。
まだ焼いていない生の土鉢を石で砕くように。

みずから思いを制し、よく念(おも)い(注意)を確立し、国から国へと遍歴しよう。

教えを聞く人々をひろく導きながら。」

(四四一ー四四四)

当時の修行者は、一ヶ所にとどまることで、そこに愛着や腐れ縁が生じないように、そのために遍歴する習わしになっていたようです。

何事にもとらわれないような心構えになった上で、その生き方や教えをひろめていく。

そのような形であったからこそ、仏教が普遍的な宗教としての特長を得た、と中村さんはお考えになっているように読み取れました。(注2)

修行中の釈迦を、悪魔は何とか、堕落させようと、様々な妨害を試みるが、すべて退(の)けられてしまいました。

その降魔の様子は、以下のように書かれています。

「かれら(ほんとうに教えをきこうという人々)は、無欲となったわたくしの教えを実行しつつ、怠ることなく、専心している。
そこに行けば憂えることのない境地(解脱の境地)に、かれらは赴(おもむ)くであろう」と。(注3)
そういう断固たる決意を聞いて、悪魔は言った。
「わたくしは七年間も釈尊に一歩一歩ごとにつきまとうていた。
しかしよく気をつけている正覚者(仏)にはつけこむすきを見つけることはできなかった」)(注4)

(四四五ー四四六)

釈迦は、29才で出家、35才で悟りを開いたから、6年のように思いますが、その修行年数は数え方で変わるようです。

そして、中村さんは、悪魔の敗北宣言として、以下のものをあげています。

「カラスが脂肪の色をした岩石の周囲を巡って
『ここに柔らかいものが見つかるだろうか』
『味のいい、おいしいものがあるだろうか』
というようなそんなことを自分はしていた。
ここに美味が見つからなかったのでカラスは飛び去った。
岩石に近づいたそのカラスのように我らはあきれてしまって、釈尊を捨て去る。」

悲しみにうちひしおれた悪魔のわきから、琵琶がパタッと落ちた。
ついでかの夜叉(神霊を指すが、この場合は悪魔)は意気消沈して、そこに消えうせた。

(四四七ー四四九)

以上で、スッタニパータでの、釈迦の生涯に関する、主なパッセージ(節)を見ました。

仏伝が発展すると、悪魔の数も増えてくるそうです。

中村さんは、このスッタニパータでは、後の仏伝で潤色される以前の、ただひたすら道を求める釈尊の姿が描かれているとしています。(注5)

~~~~~

(注1)・汝~なんじ~対称の人代名詞。そなた。おまえ。=女・爾(ナンジ)←→我。
川の意の水と、音をあらわす女(じょ)とで、二人称代名詞なんじの意に用いる。

・欲望~ほしいと思い望むこと。また、その心。

・嫌悪~憎みきらうこと。ひどくきらうこと。

・飢渇~きかつ~飲食物が欠乏すること。飢えとかわき。けかつ。

・妄執~もうしゅう~心の迷いからおこる執念。ある物事に執着すること。妄念。

・ものうさ→(参考)物憂い~何となく心が晴れない気持ちである。気がふさいで、おっくうに思うさま。けたるい。ものうさは、これから派生した語。

・睡眠~①ねむること。ねむり。
②(転じて)活動をやめていること。

・恐怖~恐れること。恐れること。恐ろしく思うこと。

・利得~利益を得ること。利益。もうけ。

・尊敬~他人の人格・行為などをたっとび敬(うやま)うこと。

②・名誉~①すぐれている、価値があると世に認められること。また、そのさま。ほまれ。
②世間から得た評価。体面。
③(地位をあらわす代名詞の上につけて)功績のあった人に敬意をあらわして贈る呼び名。
(用例)名誉会長。

・軽蔑~見くだしてばかにすること。

(注2)中村さんは大学者さんのためか、難しい言い回しによる書き方や、あまり一般的とは思えない語句をまま用いることがあるように思います。

知識量が膨大なために、何の気なしにお書きになるきらいがあるのかもしれません。

教養がなく、低能力の私からすると、わからなくて悩むことが多いので、ことによっては、独断と偏見による曲解した意訳になったとしても、つとめて平易に書き換えるようにしています。

私に理解できるように書けば、私よりずっと上であろう読まれる可能性のある方々には、軽々と読んで頂けるはずだ、と考えているからです。

そのために、時々、このような書き方になりますことを、あらかじめご了承下さい。

(注3)・専心~せんしん~一つの物事だけに心を集中すること。専念。

(注4)・釈尊~しゃくそん~釈迦の尊称。

・尊称~そんしょう~尊敬の意を込めた呼び名。←→卑称。

(注5)・仏伝~国語辞典にも漢和辞典にも載っていません。

仏教の伝記でしょうか?

わかりません。

・潤色~じゅんしょく~(色を塗ってうるおいをそえることから)事柄をつくろい飾ること。話などにおもしろみを加えて仕上げること。

中村さんが、こうした潤色という言葉を、お使いになるということは・・・。

私が中村さんに大乗仏教にもしかしたら・・・と、アタリをつけた根拠の一つです。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

546_仏言葉ー079 ー 清らかな心身を求める

第 5 章 やりたいことが見つからない

79.人生の目的

私(わたくし)には信念があり、
努力があり、
また智慧がある。
このように専心している私に、
汝はどうして生命を保つことを
尋ねるのか?

私はこのように安住し、
最大の苦痛を受けているのであるから、
わが心は諸々の欲望に
ひかれることがない。
見よ、心身の清らかなことを。

(スッタニパータ) (四三二・四三五)

佐々木さんによると、これらは、悪魔が、厳しい修行に努めていると命を縮めるから、もっと楽にして長生きしなさい、と言ったことに対する、お釈迦さんの答えなのだそうだ。

つまり、

自分は長生きを目的としておらず、心身の最高の安らぎを目指している。
そのための信念や知恵を身につけ最大の努力をしているので、長生きをしたいという欲望にはひかれない。
このような清らかな私の心身こそが、私の生きる意義・目的なのだ。

ということ。

以上の経文 2 つは、一つのまとまりからの部分的な抜粋なので、以下に全容を示そう。

スッタニパータ
第三 大いなる章
二、つとめはげむこと より(改変あり)

なお、中村さんの注釈によると、この「つとめはげむこと」は、主として精神的な努力精励(せいれい。学問や仕事などに熱心に励み努めること)を指す。
ここに描かれているのは、諸伝説と対照すると成道(じょうどう。成仏得道(じょうぶつとくどう)の略)悟りを開き仏陀(ブッダ)(覚者)になること。悟道。)以前のブッダが悪魔と戦ったことをいうのだそうだ。

ネーランジャラー河のほとりにあって、
安穏を得るために、
努め励み専心し、
努力して瞑想していた私(わたくし)に、
(四二五)

(悪魔)ナムチは
労(いたわ)りの言葉を
発しつつ近づいてきて、
言った、
「あなたは痩せていて、顔色も悪い。
あなたの死が近づいた。
(四二六) (*1)

あなたが死なないで
生きられる見込みは、
千に一つの割合だ。
君よ、生きよ。
生きた方がよい。
命があってこそ
諸々の善行を
なすこともできるのだ。
(四二七) (*2)

あなたが、
ヴェーダ学生としての
清らかな行いをなし、
聖火に供物(そなえもの)を捧げてこそ、
多くの功徳を積むことができる。
(苦行に)努め励んだところで、
何になろうか。
(四二八) (*3)

努め励む道は、
行き難く、
行い難く、
達し難い。」
この詩を唱えて、
悪魔は目覚めた人(ブッダ)の側に立っていた。
(四二九)

かの悪魔がこのように語った時に、
尊師(ブッダ)は次のように告げた。ー
「怠け者の親族よ、
悪しき者よ。
汝は(世間の)善業を求めて
ここに来たのだが、
(四三〇)

私(わたくし)にはその(世間の)善業を
求める必要は微塵もない。
悪魔は善業の功徳を
求める人々にこそ語るがよい。
(四三一)

私には信念があり、
努力があり、
また智慧がある。
このように専心している私に、
汝はどうして生命(いのち)を
保つことを尋ねるのか?
(四三二) (*4)

(励みから起こる)この嵐は、
河水の流れをも
涸(か)らすであろう。
ひたすら専心している
わが身の血が
どうして涸渇しないであろうか。
(四三三) (*5)

(身体の)血が涸れたならば、
胆汁も痰も涸れるであろう。
肉が落ちると、
心はますます澄んでくる。
わが念(おも)いと智慧
統一した心とは
ますます安立するに至る。
(四三四) (*6)

私はこのように安住し、
最大の苦痛を受けているのであるから、
わが心は諸々の欲望に
ひかれることがない。
見よ、心身の清らかなことを。
(四三五) (*7)

汝の
第一の軍隊は欲望であり、
第二の軍隊は嫌悪であり、
第三の軍隊は飢渇であり、
第四の軍隊は妄執といわれる。
(四三六)

汝の
第五の軍隊はものうさ、睡眠であり、
第六の軍隊は恐怖といわれる。
汝の
第七の軍隊は疑惑であり、
第八の軍隊は見せかけと強情と、
(四三七) (*8)

誤って得られた
利得と名声と尊敬と名誉と、
また自己を誉めたたえて
他人を軽蔑することである。
(四三八) (*9)

ナムチよ、
これらは汝の軍隊である。
黒き魔の攻撃軍である。
勇者でなければ、
彼に打ち勝つことができない。
(勇者は)打ち勝って楽しみを得る。
(四三九) (*10)

以下略。

以上で、最上段にある2つの経文、
(四三二) と (四三五) が、
二、つとめはげむこと
の中に含まれていることがおわかりになると思う。

(四三六) 以下は、内容の区別を示すために引用した。

~~~~~

(*1)ナムチは、ヴェーダ聖典並びに叙情詩マハーバーラタにおけるある悪魔の名で、インドラ神(仏教でいう帝釈天)と戦って征服されたものをいい、その名がここに取り入れられている。
原始仏教聖典では一般的には魔と呼ばれている。
労りの、とはあわれみの、という意味。
なお、悪魔がナムチの名で出ているのは、この一連の詩句がヴェーダの神話に結びついていて、他の多くの仏典よりも古いことを示している。

(*2)修行者にとっては善行とは、すなわち功徳を積むことなので、「諸々の善行をなすこともできるのだ」は「諸々の功徳を積むこともできるのだ」とも訳せるそうだ。

(*3)あなたがヴェーダ学生としての清らかな行いをなし・・・は、独身の学生として師匠の下でヴェーダ聖典を学ぶ第一の時期と、家に帰ってから結婚して家長となり祭祀を司る第二の時期に言及している。
いずれもバラモン教の律法書に規定されており、それを守ることを悪魔が勧めている場面。
供物は、火を燃やして、その中に牛乳、油、粥などを注いで火神を祭ること。

(*4)信念は、狂信的な信仰ではなく、道理を信じること。

(*5)この嵐は、苦行による激しい呼吸。
専心しているとは、努めて自己を専注(字引載っておらず)すること。

(*6)心はますます澄んで、の心が澄むというのは、仏教においては信仰の特質とされる。
(四三二)で信念(信仰)に言及したので、それを受けてのもの。

(*7)最大の苦痛は、苦行をしているのでこのように言っている。
諸々の欲望にひかれることがないは、諸々の欲望を顧みることがない、諸々の欲望に依存することがないという意味。
見よ、心身の清らかなことをは、ウパニシャッドの以下の思想を受けたもの。
「食物が清浄なる時に、本性(心身)の清浄かある。
本性の清浄なる時に、記憶(念(おも)い)が堅固である。
(堅固な)記憶を得た時に、一切の束縛から解放される」
そうして、苦行(食物を制することを含む)の結果として
「念(おも)いが確立する」
と説いている。
他のウパニシャッドでも同様。
このように、「心身の清らかなこと」の表現はバラモン教と共通。
なお、大罪を犯した人が、心を統一して托鉢の食物を摂するならば、悪から浄められるという思想は、マヌ法典にも出ている。
なお、ウパニシャッドとは、サンスクリットで書かれたヴェーダの関連書物のこと。一般には奥義書と訳される。
また、マヌ法典は、紀元前2世紀から紀元後2世紀にかけて成立したと考えられている法典。
世界の創造主ブラフマーの息子にして世界の父、人類の始祖たるマヌが述べたものとされている。
バラモンの特権的身分を強調しており、バラモン中心の四種姓の維持に貢献した。

(*8)見せかけは、偽善に通じるものをいう。
強情は、頑迷のこと。
頑迷とは、頑固で物事の道理がわからないこと。また、そのさま。

(*9)「自己を誉めたたえて他人を軽蔑すること」が悪徳として挙げてあるが、それを受ける形で、後代の仏教では「不自讃毀他戒(ふじさんきたかい)」が成立する。
自分自身を誉めたたえ、他人を謗(そし)り貶(けな)すことを禁じた戒。
これを誰かに教えて、させることも禁止。不自讃毀他戒ともいう。
十重禁戒の第七番目の戒であり、菩薩の波羅夷(はらい)罪。
ああ、難しい・・・。

(*10)黒き魔とは、悪魔ナムチのこと。

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①追記: 2022/08/13 18:13
②追記: 2022/08/13 18:15
③追記: 2022/08/16 16:30
④追記: 2022/08/16 20:01
⑤追記: 2022/08/16 22:43
〜訂正内容

上記複数回以上にわたり、本文と注釈をを加筆・訂正しています。

①と②の間は、 2 回は断りをいれずに更新しまして大変失礼致しました。

お許し願います。