おぶなより

世界平和の祈りに寄せて

688_ひしみー109

08 天魔よ、汝は破れたり

・天魔の軍勢に勝利した沙門ガウタマ

前回( 687_ひしみー108 )の続きです。

前回に引き続き、前々回( 686_ひしみー107 )の内容を独断と偏見で見ていく。

かなり特異な内容になるので、一般的な仏教にしか興味がないお方は、飛ばして(省略して)下さい。

前回は、以下のように題名をつけて、
1.正当な努力の肯定
425) ~ 429) について
2.不惑の宣言
430) ~ 435) について
3.悪魔の攻撃軍のまとめ
436) ~ 439) について
として、425) ~ 439) までを
勝手にまとめてみた。

今回以降は、435) と 439) ~449) までを
見ていく。

435) 私はこのように安住し、
最大の苦痛を受けているのであるから、
わが心は諸々の欲望にひかれることはない。
見よ、心身の清らかなることを。

436) 汝の第一の軍隊は欲望であり、
第二の軍隊は嫌悪であり、
第三の軍隊は飢渇であり、
第四の軍隊は妄執といわれる。

437) 汝の第五の軍隊はものうさ、睡眠であり、
第六の軍隊は恐怖といわれる。
汝の第七の軍隊は疑惑であり、
汝の第八の軍隊は見せかけと強情と、

438) 誤って得られた利得と名声と尊敬と名誉と、また自己を誉め称えて他人を軽蔑することである。

439) ナムチよ、これらは汝の軍勢である。
黒き魔の攻撃軍である。
勇者でなければ、彼に打ち勝つことができない。
(勇者は)打ち勝って楽しみを得る。

440) この私がムンジャ草を取り去るだろうか(敵に降参してしまうだろうか)?
この場合、命はどうでもよい。
私は、破れて生きながらえるよりは、戦って死ぬ方がましだ。

441) ある修行者達・バラモンどもは、この(汝の軍隊)のうちに埋没してしまって、姿が見えない。
そうして徳行ある人々の行く道をも知っていない。

442) 軍勢が四方を包囲し、悪魔が象に乗ったのを見たからには、私は立ち迎えて彼らと戦おう。
私をこの場から退けることなかれ。

443) 神々も世間も汝の軍勢を破り得ないが、私は智慧の力で汝の軍勢を打ち破る。
焼いていない生の土鉢を石で砕くように。

445) 彼らは、無欲となった私の教えを実行しつつ、怠ることなく、専心している。
そこに行けば憂えることのない境地に、彼らはおもむくであろう」

446) (悪魔は言った)、

「われは七年間も尊師(ブッダ)に、一歩一歩ごとにつきまとうていた。
しかもよく気をつけている正覚者には、つけこむ隙を見つけることができなかった。

447) 烏が脂肪の色をした岩石の周囲をめぐって
「ここに柔らかいものが見つかるだろうか?
味の良いものがあるだろうか?」
といって飛び回ったようなものである。

448) そこに美味が見つからなかったので、烏はそこから飛び去った。
岩石に近づいたその烏のように、われらは厭(あ)いてゴータマ(ブッダ)を捨て去る」

449) 悲しみに打ち萎れた悪魔の脇から、琵琶がパタッと落ちた。
ついで、かの夜叉は意気消沈してそこに消え失せた。

以下、いくつかに分けて書いていく。

1.前回の蛇足 その1( 435) について )

435) の末尾の一文、
「見よ、心身の清らかなることを」
について。

これも、かなりメチャクチャな
異論になるのだが・・・。

お釈迦さんが、
果たしてこんなことを
言いますかね?

悪魔に対して
「私の心の清らかさを見よ!」
なんて。

お釈迦さんは、
仏教の開祖として
悟りを開いた特別な人でしょ。

ならば、
悪魔がどういう存在かは
よくわかっていたはずです。

ちょっとやそっとで
スゴスゴと引き下がるような
手合いではないことくらい
わかっていたはずです。

悪魔にしたって、
お釈迦さんの心の清浄さは
知っていたはず。

だからこそ、
あの手この手で、
何とかして少しでも
堕落させるきっかけを作ろうと、
しつこく、しつこく、
惑わそうとして
やってきたんじゃないですか?

お釈迦さんが、
心の清らかさを得ていたのならば、
「どうだ、見よ!
私の心はこんなに清らかなのだ、
さっさと引き下がらないか!」
なんてこれ見よがしに誇示する
激しい語気を含んだセリフを
果たして言いますかね?

(何度も懲りずにやってくる悪魔に
しょうがないな
またおいでなすったか
と思いつつも)

ほら、見てごらん。
あなた(悪魔)が
何を言おうと、
けしかけようと、
私(お釈迦さん)の心は、
明鏡のようにくもりなく、
澄みわたった水のようなんだよ。
(*1)

お釈迦さんは、
こうした形で
諭すような穏やかさで
悪魔に対処するんじゃないですか?

基本的に戦いは業想念に他なりません。
真善美に悖る想いと行いの業想念なんです。

悟りに至って安穏を得ている人は、
戦いに近いような
勢い込んだ激しい口調を
取ることはせずに、
諄々と諭すように
相手に対して
説くんじゃないですか?(*2)

悪魔の(霊的な意味を含めて)
その存在いかんにかかわらず、
ただただ、
悪魔が黙って引き下がるのを
見届けるだけなんじゃないですか?

心が清浄であるということは、
人格者でもあるということでもあるし、
対人間ならともかく
(お釈迦さんは
お弟子さんでない
一般の人に
かなり手厳しいことを
言ったことがある)、
手練れの悪魔に対しては、
一喝のような清らか宣言(?)など
効果がまったくない、
無意味であることくらい
わかりきっていたんじゃないですか?

私はね
あの一文を読むと、
世の中によくある
ステレオタイプ
勧善懲悪のドラマを
連想してしまうんですよ。(*3)

善(お釈迦さん)と悪(悪魔)の対決。
どうだ見たか、
どうだ参ったか、
という宣言のような。

あの末尾の一文に
何となく、
勧善懲悪のにおいを
感じるんです。

何が言いたいのかというと。

こうした一文は、
お釈迦さんを
心から尊敬してやまない
お弟子さんの
後世の創作ではないか、
ということ。

お釈迦さんほどの境地に
至っていないお弟子さんなら、
このように言う可能性もあるだろうな、
と感じた訳です。(*4)

だから、
お弟子さんの
お釈迦さんを崇拝するあまりに
もたらされた、
経典の脚色よろしく、
末尾の一文が
あのようになっているのではないか、
と思うんですよね。

まあ、これは、
あくまでも知識不足の
ズブのド素人の邪推であり、
妄言です。

お許し願います。

2.前回の蛇足 その2( 悪魔について )

これは、上記の
1.前回の蛇足 その1( 435) について )
にも増して、
さらにハチャメチャなものとなるが、
お許し頂きたい。

くどいようですが、ごく普通の仏教にしか興味のない人は飛ばして下さい。

読み終えた後に、読んだ人に、こんなトンデモ内容を読ませやがって、という気持ちを抱かせたくないから。

私は騙されることは大嫌いですが、騙すことはもっと嫌いだからです。

私としては、思いのままを書きますが、受けとる側の人によっては、まったく受け付けない感想を持たれる可能性が高いからです。

だから、あらかじめお断りをしています。

まずは、悪魔をどのようにとらえるかで、以下の 2 つに分ける。

(1)人間の迷いの気持ちを代弁する存在

これは、一般的な仏教によく見られると思われる悪魔の見方。

要は、人間の自分の想いの迷いを、悪魔という擬人化した形をもって代弁させているという考え方。

例えば、悪魔は悪の化身ではなく、人間の煩悩の象徴などとしてとらえる考え方がこれに当たる。

次の章( 09 梵天による懇請 )になるが、ひろさんは、「仏伝作者(仏教経典作者としていいだろう)が、お釈迦さんの内面の思考を悪魔という形で外在化させた」のように書いていた。

つまり、自らの迷いを擬人化したということは、いわば自分の分身として対話する相手を作り出しているんですね。

つまり、悪魔といいながら、どこまで行っても、自分になるんですよ。

自分なんです。

別立ての、別の個体としての存在ではなく、自分の一部なんです(仮に頭の中に想いとしてあらわれたものだとしても)。

(2)人間とは別の個体の妄念や霊的な存在

これには、大前提があります。

ちょっと、奇異に聞こえるとは思いますが、ご勘弁願います。

それは。

悪魔の存在も、地獄も、霊界も、幽界も、現界(この世)も、あらゆるものや世界の何もかもが、すべては神様の世界に含まれると考えるものです(多分、私だけの突飛な考え方だと思う)。

つまり、あらゆる世界には、神様しかいない。

迷った妄念だったり、霊的だったりする悪魔も、その活動の源、エネルギー源はすべて神様にある。(*5)

神様のお力、生命エネルギーの何かしらの命の息吹きがなければ、悪魔そのものの存在すらない。

つまり、元はみんな神様なんです。

ただ、そのあらわれ方が、それぞれの世界の別の個体となってあらわれているに過ぎない。

だから、とりあえず、仏教の話で悪魔をとらえる場合には、(源は神様だけれど)人間とは別の個体の悪魔を考える。

つまり、自分の一部として、迷いをあらわすものとして作り出した悪魔ではなくて、別立てのものとしてとらえる訳です。

仏教関係の書籍を読んでいても、私はこのような形で、妄念なり、霊的な存在なりとして悪魔をとらえる方が、ずっとしっくり来ると思う。

それに、そもそも、本来悟りを開いた人が、ほんの少し(悟りにもさらに段階があるから)迷ったりするならともかく、あのように迷うのは、何だか悟りを開いた人に似つかわしくないと思われるのですよ。

だから、お釈迦さんのように、悟りを開いた人は、悟りを開いた人、妄念としての悪魔や霊的な悪魔がやって来ても、その都度、その都度、静かに対処してお帰り頂く。

そうしていたんじゃないですかねえ。

また、長くなりましたので、ここで区切ります。

~~~~~

(*1)・明鏡止水~めいきょうしすい~(くもりのない鏡と澄んだ水の意から)邪念がなく心が落ち着いて澄みきっている状態。

(*2)・諄々~じゅんじゅん~理解しやすいように丁寧に繰り返して説くさま。
(用例)諄々と諭す。

(*3)・ステレオタイプ~①印刷の鉛版。
②(転じて)行動様式や考え方が型にはまって画一的であること。紋切り型。
(用例)ステレオタイプの発想。
ここでは、②の意。
なお、ステレオタイプは、ステロタイプともいう。

・勧善懲悪~かんぜんちょうあく~善をすすめ、悪をこらしめること。

(*4)悟りを開いた、阿羅漢になったからといって、すべての悟りを開いた人が同じ水準ではなかったと思われます

まずは、第一の超難関(何世もかかってようやくたどり着けるものであるだろうから。お釈迦さんでさえ、いくつもの過去世があるとされているから、超難関には変わりがないにしても)を突破した、という人達が、とりあえずは阿羅漢である、と。

ひろさんは、お釈迦さんだけは宇宙仏というか、特別な仏陀ととらえていたみたいだけど。

五井先生によると、空の空のまた空の、・・・と段階があるようなので、神様のみ心までいたるには、ずっと精進が続くみたいですよ。

だから、とりあえず、三学を修めて、難行道で悟りを開いても、その先の段階がまだまだある、と。

(*5)妄念~もうねん~(仏教語)~迷いの心。迷妄の執念。妄執。

なお、勝手ながら、ここでは個人的に、何らかの生き物のように活動する人間の迷った想いの集まりという意味にして使っている。

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①追記: 2022/08/21 23:43
②追記: 2022/08/21 23:45
〜訂正内容〜

上記複数回にわたり、本文を加筆・訂正しました。