おぶなより

世界平和の祈りに寄せて

687_ひしみー108

08 天魔よ、汝は破れたり

・天魔の軍勢に勝利した沙門ガウタマ

前回( 686_ひしみー107 )の続きです。

前回の内容を独断と偏見で見ていきたい。

一般的な仏教にしか興味がないお方(かた)は、省略して下さい。

その前に。

前回は過去に触れたものもいくつか含めて見返しながら多少手を加えたのだが、結果として同一内容に関して、細かな点で補い合うような形になって、自分としてはちょうど良い復習となった。

重複する部分が多々あったが、内容的な深みはともかく、知識的には、とりあえず網羅的にはなったと思う。

高校の学習参考書や大学の社会科学の基本書などの時にも感じたが、知識を網羅して、なおかつ深みのある、「これだ」という決定版はないんだよね(個人的な独断と偏見かもしれないが)。

同じ著者、例えば仏教の大学者で、人格者であろう中村さん(中村元さん)でも、様々に内容が書き分けられていきらいがある。

もちろん、その本に込めた思い(趣旨)や、何らかの都合上だとは思うけど。

だから、芯となるものをある程度決めたら、これを中心にまわりを補充してまとめ上げていくしかないのかな、とも思っている。

話がそれた。

さらなるまとめは、お手数で申し訳ないのだが、読まれる方ご自身でなされるようお願いしたい。

さて。

前回の内容を見ていきたい。

スッタニパータ
第三 大いなる章
二 つとめはげむこと

425) ネーランジャラー川のほとりにあって、安穏を得るために、つとめはげみ専心し、努力して瞑想していた私に、

426) (悪魔)ナムチはいたわりの言葉を発しつつ近づいてきて、言った、

「あなたはやせていて、顔色も悪い。
あなたの死が近づいた。

427) あなたが死なないで生きられる見込みは、千に一つの割合だ。
君よ、生きよ。
生きた方がよい。
命があってこそ諸々の善行をなすこともできるのだ。

428) あなたがヴェーダ学生としての清らかな行いをなし、聖火に供物をささげてこそ、多くの功徳を積むことができる。
(苦行)につとめはげんだところで、何になろうか。

429) つとめはげむ道は、行き難く、行い難く、達し難い」

この詩を唱えて、悪魔は目ざめた人(ブッダ)の側に立っていた。

430) かの悪魔がこのように語った時に、尊師(ブッダ)は、次のように告げた。

「怠け者の親族よ、悪しき者よ。
汝は(世間の)善業を求めてここに来たのだが、

431) 私にはその(世間の)善業を求める必要は微塵もない。
悪魔は善業の功徳を求める人々にこそ語るがよい。

432) 私には信念があり、努力があり、また智慧がある。
このように専心している私、汝はどうして生命を保つことを尋ねるのか?

433) (はげみから起こる)この風は、河水の流れをも涸らすであろう。
ひたすら専心しているわが身の血がどうして枯渇しないであろうか。

434) (身体の)血が涸れたならば、胆汁も痰も涸れるであろう。
肉が落ちると、心はますます澄んでくる。
わが念(おも)いと智慧と統一した心とはますます安立するに至る。

435) 私はこのように安住し、最大の苦痛を受けているのであるから、わが心は諸々の欲望にひかれることはない。
見よ、心身の清らかなることを。

436) 汝の第一の軍隊は欲望であり、
第二の軍隊は嫌悪であり、
第三の軍隊は飢渇であり、
第四の軍隊は妄執といわれる。

437) 汝の第五の軍隊はものうさ、睡眠であり、
第六の軍隊は恐怖といわれる。
汝の第七の軍隊は疑惑であり、
汝の第八の軍隊は見せかけと強情と、

438) 誤って得られた利得と名声と尊敬と名誉と、また自己を誉め称えて他人を軽蔑することである。

439) ナムチよ、これらは汝の軍勢である。
黒き魔の攻撃軍である。
勇者でなければ、彼に打ち勝つことができない。
(勇者は)打ち勝って楽しみを得る。

440) この私がムンジャ草を取り去るだろうか(敵に降参してしまうだろうか)?
この場合、命はどうでもよい。
私は、破れて生きながらえるよりは、戦って死ぬ方がましだ。

441) ある修行者達・バラモンどもは、この(汝の軍隊)のうちに埋没してしまって、姿が見えない。
そうして徳行ある人々の行く道をも知っていない。

442) 軍勢が四方を包囲し、悪魔が象に乗ったのを見たからには、私は立ち迎えて彼らと戦おう。
私をこの場から退けることなかれ。

443) 神々も世間も汝の軍勢を破り得ないが、私は智慧の力で汝の軍勢を打ち破る。
焼いていない生の土鉢を石で砕くように。

445) 彼らは、無欲となった私の教えを実行しつつ、怠ることなく、専心している。
そこに行けば憂えることのない境地に、彼らはおもむくであろう」

446) (悪魔は言った)、

「われは七年間も尊師(ブッダ)に、一歩一歩ごとにつきまとうていた。
しかもよく気をつけている正覚者には、つけこむ隙を見つけることができなかった。

447) 烏が脂肪の色をした岩石の周囲をめぐって
「ここに柔らかいものが見つかるだろうか?
味の良いものがあるだろうか?」
といって飛び回ったようなものである。

448) そこに美味が見つからなかったので、烏はそこから飛び去った。
岩石に近づいたその烏のように、われらは厭(あ)いてゴータマ(ブッダ)を捨て去る」

449) 悲しみに打ち萎れた悪魔の脇から、琵琶がパタッと落ちた。
ついで、かの夜叉は意気消沈してそこに消え失せた。

以下、いくつかに分けて書いていく。

1.正当な努力の肯定

425) ~ 429) について

これを読んで感じるのは、お釈迦さんは苦行にまではならないまでも、相当厳しい禅定をしていただろうということ。

しかし。

仏教とは中道を旨とするものであり、苦行はダメなんじゃなかったの?

おかしくないですか?

このくだりは。

悪魔は、苦行にも近いと思える(?)お釈迦さんの厳しい禅定(おそらく食事もスジャータさん達に供養してもらった乳粥のように体力を維持するための必要最低限の質素なものであったのではなかろうか)に励むのをやめさせようとして、あのようなことを言ったんじゃないの?

だから、お釈迦さんからすれば、形式に重きを置きすぎて、本来の求道から遠ざかるように思える(?)バラモンの儀式をすすめてくる悪魔のささやきを相手しなかったんじゃないの?

このように見てくると、仏教には苦行とは言わないまでも、ある程度の厳しい修行は必要不可欠だ、と読み取らざるを得ませんね。

429) の、「つとめはげむ道は、行き難く、行い難く、達し難い」

この悪魔の言葉は、
「あんたの苦行に近いような修行は、悟りへの道は遠いし険しいよ。やめときな」
そう言っているように取れるからだ。

お釈迦さんご自身でさえも、435) で、「最大の苦痛を受けている」と言っているじゃないですか。

このように考えてくると、あの悪魔のささやきは、むしろ、以下のようにさえ思えてくる。

「あんた(お釈迦さん)は、見るからに不健康で弱っていて死にそう(?)じゃないか。
そんな厳しい苦行まがいの修行はさっさとやめちまいな。
ちゃんと形式に則って、それなりの儀式をすれば功徳を積めるとされる教えが別にあるんだからさ」

仏教は中道であり、苦行ではないという。

しかし、ここでは苦行に近い修行を、強い意志(信念)をもって励まなければ、悪魔の甘言に乗って堕落させられるような話になっているのではありませんか?

お釈迦さんが、その悪魔の甘言をはねのけたということは、ある程度の苦行を肯定している、と解釈せざるを得ないですよ。

つまり、正当な苦行に近い修行(?)、いわば、正当な努力の肯定です。

ただ、その正当な努力の、修行の苦行との境界のさじ加減が、一般的な仏教の本には書かれていないような気がするんですよ。

だからこそ、お釈迦さんは、430) で悪魔のことを怠け者云々と批判している。

一般的な仏教は、苦行はダメだ、仏教は中道だと言う。

ならば、そもそも、この悪魔との問答をしているお釈迦さんが励んでいる厳しい苦行とも取れる修行そのものが、中道ではないのではありませんか?

こうした仏教の一般的な解釈をみてくると、私のようなズブの素人にはどうにも話がモヤモヤしてわからないんですけどね。

従って。

ズブの素人的には、これは正当な努力の肯定としか表現のしようがありませんね。

その正当な努力の内容は、大体、以下のようになると考えられる。

悟りに至る道は、
ー 戒めと、精神統一と、智慧と ー
を修めること、とされているから、

「戒学と定学と慧学の三学をほどよく相互補完的にバランスを取りながら、なおかつ、三位一体として修行をすること」
が、正当な努力の内容となると言える。

2.不惑の宣言

430) ~ 435) について

私(お釈迦さん)は、正しい道筋をきわめて悟りに至ったんだ。

どんなに、あなた(悪魔)が、脅そうが、すかそうが、何をしようが、私は惑わされないよ。

そういった、悟りを目指す人を堕落させようとする甘言は、形式的な儀式に重きを置きがちで、世間の善業(面倒くさいからカッコを外す。現代で言えばご利益的なものになるだろう)を求める人達に言うんだね。

そうした人達には、ことによると、あなた(悪魔)の甘言は効果があるかもしれないからさ。

私が求めたのは、そうした形式的な功徳を積んだご利益としての対価としての悟りではないんだよ。

正しい道筋を知った私は、多分、命も大丈夫だろう。

悟りを心ゆくまで感じ取れることが(神様から与えられた寿命の許す限り)できるはずだ。

だから、あなた(悪魔)からどんなに不健康に見えようとも、私(お釈迦さん)は身体について何の心配もしていないよ。

私は決してあなたに惑わさることはないんだよ。

3.悪魔の攻撃軍のまとめ

436) ~ 439) について

お釈迦さんには悪いけど、何だかやたらめったらゴチャゴチャと話をややこしくする細分化だなあ。

私のような単細胞人間には、ありがたくない。

よって、面倒くさいので、以下のようにまとめ直す。

悟りを得ていない肉体人間観にとらわれた私達は、自己保存という利己主義的な生き方を余儀なくされるだけでなく、肉体の五感にまつわる各種の欲望にどうしても振り回される。

従って、韓非のいうような、「欲で釣り、刑罰で脅す」形にきわめて弱い。

第一の軍隊である欲望。
これは、欲で釣るの欲そのまま。

第二の軍隊である嫌悪。
これは、他人との比較で常に何らかの形で生じる差を元に生じる。
いわば、広義の脅しの一種。

第三の軍隊である飢渇。
これは、栄養不足などの肉体の身の安全の不安から生じる。
これも、広義の脅しの一種。

第四の軍隊である妄執。
これは、五感にまつわる各種の欲望が過剰なことにより生じる。
よって、これは欲望の一種。

第五の軍隊であるものうさ、睡眠。
これは、肉体人間として限られた寿命と時間しかないのに、楽をしたいということ。
従って、これも欲望の一種。

第六の軍隊である恐怖。
これは、肉体人間としての身の安全を脅かすあらゆるもの。
これは刑罰で脅すことの一種。

第七の軍隊である疑惑。
これは、猜疑心を生じさせて人々の間を分断し、自らをも不安に陥れること。
これも刑罰で脅すことの一種。

第八の軍隊である見せかけと強情と、誤って得られた利得と名声と尊敬と名誉と、また自己を誉め称えて他人を軽蔑すること。
これは、簡単に言えば、虚勢を張って生じる見栄と傲慢ということ。
これは広義の欲望の一種。

つまり、悪魔は、様々な形で「欲で釣り、刑罰で脅す」基本形を用いながら、悟りを目指す人を惑わそうとする。
さらには、お釈迦さんのように悟りを開いた人をも、(他の未達の人々の教化を防ぐために)堕落させようとしつこく、しつこくまとわりついて、攻撃(?)してくる。

これをあらわしているのが、以下である。

439) ナムチよ、これらは汝の軍勢である。
黒き魔の攻撃軍である。
勇者でなければ、彼に打ち勝つことができない。
(勇者は)打ち勝って楽しみを得る。

長くなりましたので、ここで区切ります。

ご了承願います。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

①追記: 2022/08/19 20:00
②追記: 2022/08/19 20:20
③追記: 2022/08/19 22:00
④追記: 2022/08/20 02:20
〜訂正内容〜

上記複数回にわたり、本文を加筆・訂正しました。