08 天魔よ、汝は破れたり
・天魔の軍勢に勝利した沙門ガウタマ
前回( 688_ひしみー109 )の続きです。
今回も、前回同様、かなり特異な内容になるので、一般的な仏教にしか興味がないお方は、飛ばして(省略して)下さい。
前回は、悪魔をどのようにとらえるかで、以下の 2 つに分けた。
(1)人間の迷いの気持ちを代弁する存在
これは、一般的な仏教の見解。
人間の自分の想いの迷いを、悪魔という擬人化した形をもって代弁させているという考え方で、悪魔は悪の化身ではなく、人間の煩悩の象徴などとしてとらえる考え方だ。
つまり、自分の分身として対話する相手を悪魔として作り出しているので、悪魔と自分とはあたかも別の存在であるかのようにしながらも、その本質はどこまで行っても、自分になるんですよ。
自分なんです。
いわば、仮想人格ですね。
別立ての、別の個体としての存在ではなく、自分の中の一部、自分の中の仮想人格なんです。
(2)人間とは別の個体の妄念や霊的な存在
これは、実は 2 通りある。
前回書いたのは、私自身の突飛な考え方で、以下のように書いた。
あらゆる世界には、神様しかいない。
従って、迷った妄念としての悪魔も、霊的な悪魔も、その活動の源、エネルギー源はすべて神様にある。
神様のお力、生命エネルギーの何かしらの命の息吹きがなければ、悪魔そのものの存在すらない。
つまり、大元はみんな神様である。
ただ、そのかりそめとしてのあらわれが、それぞれの世界の別の個体となっているに過ぎない。
だから、仏教の話で悪魔をとらえる場合には、(根元は神様だけれど)人間とは別の個体の悪魔を考える。
つまり、自分の一部として、迷いをあらわすものとして作り出した悪魔ではなくて、別立てのものとしてとらえる。
とは言うものの、実は、これは一般的な神様と悪魔を説く宗教とは根本的に違う考え方なのです。
もう 1 つは、一般的な宗教の考え方で、悪魔の元は神様とは考えず、あくまでも悪魔は神様とは別個の存在としてとらえる一般的な宗教の考え方だ。
一般的な宗教は、神様と悪魔を別立てとしてとらえても、その大元に神様があるとは考えず、あくまでも神様と悪魔を対立した別個の存在としてとらえる。
ゾロアスターのように、神様と悪魔を対立した別個の存在としてとらえるのだ。
だから、世の中の不幸や災難、特に悪事をすべて滅ぼすためには、悪魔と戦い、これを殲滅しなければならないことになる。
仮に悪魔を叩いて、一時的な安息の時が訪れても、これでは絶対の安心は得られないのである。
悪魔を殲滅すべき、救いようのないどうしようもない存在として、見限っている、見捨てている限り、これは不可能としか思えないのだ。
悪魔を滅ぼしての地上天国なんか作れない。
作れっこない。
つまり、こうした悪魔を責め裁いて、戦って、叩いて、完全に殲滅させるという考え方=唯物論的な考え方をしている限り、いつまでたっても、不安を取り除くことができず、絶対の安穏は訪れないのである。
悪の宇宙人、悪の惑星、悪の衛星。
こんなことを言っている限り、いつまでたっても、悪魔をなくす(=迷いをなくして変容させるという意味)ことはできないのである。
私にはそのように思えて仕方がない。
だから、善と悪を対立させて、悪魔の存在を完全別個なものとするあたかも唯物論的な宗教には、本当の救われはない、と思えて仕方がないのである。
どんなに悪魔が巨大で、強大で、まったく歯が立たないように思えても、こうした悪魔を殲滅すべきとする唯物論的な思考から離れ、あくまでも神様だけを心に住まわせるように、繰り返し、繰り返し、努めていく。
どんなにつらくても、苦しくても、殲滅すべき悪魔などは、努めて意識しないようにする。
そうした生き方を実質的に感得することのできたいにしえの宗教の達人が、仏教の浄土門の妙好人の因幡の源左さんや、浅原才市さんや、宇右衛門さんなのである。
彼らがあれだけの境地に至ることができたのは、純粋無垢な子供のように阿弥陀如来様一途を通したからではないだろうか。
仮に、彼らに悪魔云々と余計なことを執拗に吹き込んでいたら、もしかしたら結果は違ったものになっていたかもしれない。
不安や恐怖を抱くことにしかならない悪魔は、一切、相手にしない。
できる限り、気にしないように努める。
彼ら(妙好人の源左さん、才市さん、宇右衛門さん)の話を読むと、悪魔を気にしない、相手にしない、ことが大事なように思える。
(追伸)
私は仏教の一般的な悪魔のとらえ方に、どうしても無理があるような気がしてならない。
悟りを開いたはずなのに、自らの心の内面の葛藤を、いわば克己心との攻めぎ合いを、いつまでも、延々としているのは、おかしいとしか思えなかった。
納得できなかった。
悟りを開いたのに、迷いに迷う?
おかしいんじゃないのこれ。
悟りを開けば、迷いはない。
心は澄み切って、平穏そのもの。
不穏な下心を持った悪魔がどんなに揺さぶりをかけてもへっちゃら。
ただ、ただ、ひたすらに、事務的に対処して、その都度、その都度、退けるだけでいい。
どんなに悪魔が煩わしくまとわりついてきても。
イライラもしない。
怒りもしない。
不安も抱かない。
かかってくるものは、ただ、スッと退けるだけ。
これがあるべき姿なんじゃないの?
ただ、
当時の宗教も含めて一般的に、
勧善懲悪の
善と悪の対立よろしく、
戦って勝つ、
という有り様が好まれるために、
あのような
お釈迦さんと悪魔のやり取りを
戦いを模した物語として仕立てたんじゃないの?
私にはそう思えたよ。
それと。
悪魔を神様と完全に別立ての別個の存在とする、善悪二元論にとらわれている限り、これは宗教とは思えないんです。
これは唯物論です。
どんなにお前の考え方が間違っていると言われようが、バカと言われようが、悪魔を殲滅すべきとする唯物論的な思考の宗教は、私には不安を払拭できないように思えて仕方がないのですよ。
どんなに神様を信じられなくなるほどに世の中が乱れ、
どんなに悪魔が強大な力を持つように見えたとしても、
善なる神様を根底から信じ切る。
これがあるべき宗教であり、神様と人間の関係を紐解く元になっていると考えます。
正直に言うと、悪魔を認めてしまった方がずっと楽なんです。
いつまでも、いつまでも、強い者ばかりが我が物顔に振る舞う世の中や、不幸や災難がある世の中を耐えていくのはつらいからです。
地上天国化を夢見ながらも、この世を去られた信仰者の人達もおそらくたくさんいる。
しかし、そんな夢はなかなか実現しそうにない。
それでも神様を信じて、自分の身の程をわきまえ、諦めの境地に至ることさえ容易ではない。
もう、信仰なんて捨ててしまえ、この世を面白おかしく、欲にまみれて、うたかたの時を過ごした方がはるかに楽だ。
それでも、信仰を選ぶかどうかは、その人次第です。